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萩原芳樹のブログ
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昨日今日と、TVはどこも「草なぎ騒動」だらけですが、騒ぎすぎてマジメな彼を余計に傷つけているようで心配すらしてしまいますよね。

実は私には「明日のTV本番で、素っ裸になれ!」と、プロデュ-サ-から言われ、結局できなかったという思い出であります。

東京に行って一年余り、TVのレギュラ-番組をいただくことになりました。
(このキッカケについては後程お話しますが)
「ビッグバラェティ」という番組で、基本的には人気歌手が毎週7~8人出る歌謡番組です。
その1コ-ナ-で、歌手がコントをするコ-ナ-があり、私は歌手の方達とコントを演じていました。

お決まりのパタ-ンがあって、私を次々と登場する歌手の人達がいじめて行くという笑いのパタ-ンです。

そして問題の週は、私が入院患者でベッドに寝ていて、見舞いに来た人達が「大丈夫?」と言っては、見舞いの品を私の上に荒々しく置いたり、
「どこが痛むの?ここ?」と、痛い部分と叩いては私が痛がるというベタなコントでした。
そして、オチにアイドル歌手が、ベッドをめくると私が赤フンドシ一枚で寝ていて、「キャ-!」と、ビックリして終わり・・・という内容。

そのオチの場面で、赤フンドシでなく、フルチンになっていてビックリしたアイドル歌手を、素っ裸のままスタジオ中、追いかけろ・・・というのが前夜にプロデュ-サ-から言われたことでした。

話を聞けば、私をレギュラ-に入れてくれたそのプロデュ-サ-なのですが、私のレギュラ-の位置がヤバいので、何かして話題性を作りたいらしいのです。
「当日、記者を呼んでいるから、『バカな奴がいたもんだ』とオマエは必ず新聞に載る。放送上では勿論その部分はカットするが、オマエ、レギュラ-で残りたいなら、明日フルチンになれ!」と。

さて当日。本番はドキドキです。
コントは進行して行きます。
オチが迫って来ました。
「ベッドの中で、わからないように赤フンドシを外さないと・・・」
迷いに迷いましたが、結局できずに台本通り赤フンドシのままオチに。

スタジオにいたプロデュ-サ-の顔は、怒るというよりも「アカン奴やなぁ」という表情。

結局その番組は、暫くしてレギュラ-から外されました。
ちなみにその時のアイドル歌手は、デビュ-間もない桜田淳子さんでした。

では、どうしていきなりTVのレギュラ-番組をいただけたのか・・・また次にお話します。
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高速道路で、前の車に「ウンコしたいから、次のインタ-で下ります」という合図はどうしたものか・・・色々やってみても、前を走るリ-ダ-の車は気付いてない様子。

「そうだ!追い越して先にインタ-を下りてしまえばいいんだ」と、前川さん。
私も、そんな単純な方法があることに気付きませんでした。

前川さんは、エンジンをふかしてリ-ダ-の車を、あっという間に追い越しました。
すると、追い越されたリ-ダ-は、またアクセル全開にして、こちらの車を追い抜いてしまったのです。
「高速で追い抜きあいをして遊ぼう」と、勘違いされてしまったようです。
前川さんの様子は、かなりヤバそう。

何とか前川さんの車が先頭で、次のインタ-で下りることに成功。
リ-ダ-の車も、後を追って来ました。

インタ-近くの山梨県の田舎のガソリンスタンドを見つけて、車は滑り込みました。
そのスタンドには、老夫婦二人がいて、デカいアメ車が二台続けて来たことに目を丸くしていました。
この辺りでは、まず見かけることのない高級外車が、それも二台です。
ビックリするのも当たり前です。

そして、車から出て来たのが前川さんだったので老夫婦は、またまたビックリ。
前川さん、いきなり尻を押さえながら「便所貸してください!}と。
老夫婦、またまたまたビックリして、トイレを案内してくださいました。

こうした珍道中の末、目的の富士急ハイランドへ。
ホ-ルは超満員。
私も無難に司会をこなしました。
そして、メンバ-が着替えの間、10分程の漫談でつなぐことに。

しかし、15分経過しても、20分経過しても、メンバ-は出て来る様子もなし。
実は、私の漫談がどれだけ持つのか、面白いから試していたらしいのです。

キャロルの修羅場に比べたら楽なものでした。
結局私は、30分程漫談をして、舞台を下りました。

ク-ルファイブショ-の司会は、この時一回限りでしたが、何だか楽しい思い出として残っています。

後に私は前川さんのモノマネ芸を身につける訳ですが、この頃やっていれば、もっとご一緒にお仕事をさせていただいたのかも知れません。

前川清さんボ-カルの「ク-ルファイブ」の司会をしたことがありました。

場所は「富士急ハイランド」
当日お昼に、TVの仕事でご一緒させていたたいてたので、私は前川さんの車に乗せていただき、余興先へ。
(私が東京で、どのようにしてTVの仕事をいただけるようになったかについては、また後日詳しくお話します)

前川さんの愛車は「リンカ-ンコンチネンタル」というバカでかいアメ車で、リ-ダ-の内山田さんも、同じコンチネンタルで、他のメンバ-はリ-ダ-の車に便乗して富士急へ。

そんな高級車に乗せてもらうのは初めてだったので、私は緊張気味に助手席へ。
すると、運転している前川さん、車のカセットのスイッチを入れたのですが、そこから流れて来るのは、何と前川さん自身の歌でした。
「♪神戸・・・泣いてどうなるのか・・・」
前川さんは、自分の歌を聴きながら平然と運転を。

失礼とは思いつつも、ついつい聞いてしまいました。
「前川さん、どうして自分の歌を聴いておられるのですか?」と。
ひょうきんな方でしたので、私を笑わせるつもりかな?・・・とも、思ったのですが、答えは違いました。

「あのさ、人前で歌を唄うなんてことは、実に恥ずかしいことなんだよね。余程自信がないと、そんなことできないよ。だからさ、こうやって仕事の前には自分の歌を聴いて、『俺って歌上手いなぁ』と、陶酔する時間を作ってるんだ。でなきゃあ、人前で堂々と唄えないよ。一歩舞台に上がれば、『俺は凄いんだ!』と、思いこまなきゃできない仕事だからね」

私は成る程と感心しました。
「こんな凄い人でも、そうやって自分と戦っている」
漫才の場合、オチに自信を持っていないと絶対にウケません。
「果たして、お客さん、笑うかなぁ」なんて思って自信なくオチを言うと、必ず滑ってしまうのです。
「これは面白い!」という自信があってこそ、初めて笑いにつながる訳です。
歌手の方も、同じように戦っていることを知り、私は驚きました。

前川さん運転の「リンカ-ンコンチネンタル」は、私を助手席に乗せて、一路余興先の富士急ハイランドに向かっておりました。
ところが、高速道路でとんでもないアクシデントが発生してしまったのです。

運転していた前川さん。急にモゾモゾ始めて、
「まずい!ウンコしたくなっちゃったよ。五郎ちゃん、前を走っているリ-ダ-に、俺がウンコしたいから、次のインタ-で一度下りてウンコをしたいと知らせてくれるかな」と。

当時は勿論携帯電話なんかありません。
窓を開けて叫ぼうにも、声が届く訳でもなし。
「前川さん、どうやって伝えましょうか?」と、私が聞くと、
「あんたもコメディアンだろ。ゼスチャ-で知らせてよ」と。

「前川さんがウンコをしたいので、次のインタ-で一度下ります・・・」こんなゼスチャ-を高速道路で走っている前の車にどう伝えたら良いものか。
とりあえず私は、助手席の窓を開けて、自分の尻を出し、ウンコがもれそう・・・という合図を送ってみました。
しかし、前のリ-ダ-は全く気付く様子もなし。

さて、どうなったのか・・・また続きます。

さて、渡辺プロから歌手の司会の仕事をいただいていた私でしたが、ある欲求不満に落ち入っていました。

というのも、司会業とは、あくまでメインの歌手を盛り上げる役目であり、自分が目立ってはいけないのです。
「お笑い指向」の強い私としては、常に何かやりたい・・・そんな気持ちでいっぱいでした。

ビッグな方の司会では、決して許されないことでも、新人歌手のキャンペ-ン程度の司会なら、少々のデタラメをやっても許してもらいました。

こんなことを悪ふざけで、やったことがありました。
新人歌手に舞台でインタビュ-する時、
「将来の夢はいいとして、今すぐやりたいことは?」と、聞くのです。
新人歌手は初々しく答えていましたが、客席から笑い声が。

「実は私には、今すぐやりたいことがあるのですがね」と、言うと、
「何ですか?」と、新人歌手。
「そんなこと、ここでは言えません」と、私は答えながら、さりげなく背中を客席に向けます。
すると、私の背中に大きな紙を貼っていて「ウンコがしたい!」と、書いておいたのです。
客席は爆笑にはならなかったのですが、クスクスと。
私としては「やった感」で充実。

そして、「私は一寸すぐにやりたいことがあるので、二曲続けて歌ってもらいましょうか」と。
打ち合わせでは、一曲終わって、また登場することになっていたのですが。
新人歌手は訳がわからず、「ハイ」と、キョト-ン。
「二曲歌ってもらっている間に、私のやりたいこと、やって来ます」
二曲紹介した後、私はウンコを今にももらしそうな格好で、ハケて行きました。

本当に悪ふざけの過ぎた司会者でした。

司会業の時の逸話が、いろいろ多いので、またお話します。
今日、ちょっとした用があり、久しぶりに帰省。
駅前を何年かぶりにブラついてみた。

私は、高校卒業まで姫路にいて、その後23歳~28歳までまた姫路で暮らしていた。
25歳が28歳までは、姫路の駅前で婦人服の店を経営していた。

姫路に戻る時、必ず元店のあった付近に車を駐車してしまう。
私の店の後は、その後何年か「メンズビギ」になっていたが、今は普通のビルになってしまっている。
隣りにあった元映画館は、今ではホテルに。
逆隣りにあったソ-プ後は、今も風俗店になっていた。

姫路駅前の風景も随分変わったものだ。
しかし、元店の向かいにあった豆腐屋さんと、理髪店はそのままだった。

小腹が空いたので、30年前の記憶を頼りに駅はずれの小さなラ-メン屋へ。
ここは屋台のラ-メン屋から独立したお店で、ここのラ-メンは姫路の屋台ラ-メンの味が残っているのだ。
久しぶりに食べてみてショックだった。
30年前、あれだけ好きだったラ-メンが、そんなに美味しくないのである。
店の大将は昔のまま。ということは、この30年の間に、私はもっともっと美味しいラーメンを食べていたということなのだろうか。

元店の近くにある老夫婦がやっている小さな喫茶店に立ち寄ってみた。
昔何かと、よくお世話になったご夫婦である。
75歳のマスターは、元気な笑顔で迎えてくれた。
美人のママも、70歳位だと思うのに、50代に見えた。

「新聞見たで。京橋花月の芝居、どうやった?」
開口一番の挨拶代わりの言葉。
新聞を見て、「お茶子のブルース」のことを知ってくれていたらしい。
私は「しまった!」と、思った。
TVのスタッフロールに私の名前を見つけては、今でも喜んでくれているご夫婦。「せめて招待状でも送るべきだった」と。

そのご夫婦から、向かいの理髪店の奥さんが最近亡くなったことを聞かされた。64歳。肺ガンだったらしい。
向かいの奥さんは、立町(その駅前の町内会)の放送局と呼ばれていた人で、私が店を閉める時「今日は忙しそうやったね」とか、私の店の客の入り具合をずっと観察していた面白い奥さんだった。

当たり前の話だが、懐かしい風景は時と共に変わって行く。
そして、風景こそ残っていても、そこにいる筈の人が消えていなくなったりしてしまう。
帰り道、私は昭和の歌を口ずさんでしまっていた。

PS・・・暫くお休みしていた「東京芸人としての再スタート」また、続きを書きますので、覗いてみてください。

また、私の事務所のホームページの具合が悪いようで、そこからアクセスできない状態が続いているようです。
早急に何とかします。ご迷惑をおかけしております。
今日は「第44回上方漫才大賞」の本番。
「ぶったま」の生放送を終えて、司会のサブロ-さんと、タクシ-で「サンケイホ-ルブリ-ゼ」に移動。

私がこの賞にかかわらせてもらって、もう10年以上になる。
44年の歴史がある「漫才の賞の老舗」であり「漫才の賞の元祖」でもある。

今から44年前、東京で「お笑いブ-ム」が起こり、東高西低の時代に、この賞が始まった。
当時、漫才作家の秋田実先生が「東京の笑いばかり注目されて、大阪の笑いにもっと活気を与えたい。何か方法はないものか・・・そうだ、漫才に賞を作って、TVで活躍していなくても、舞台で頑張っている漫才コンビを褒め称えて元気になってもらおう!」

というのが、この賞の起源である。
そんな上方漫才大賞に今年選ばれたのが「矢野兵動」の二人。
受賞した二人は、楽屋でも涙を浮かべ、19年の道のりを感慨深く振り返っていた。

まさに、この大賞を受賞する大変意味のある受賞式だった。

昨年の大賞は「ティ-アップ」
やはり舞台でコツコツ漫才活動を続けたことが認められて受賞した。

私は思う。
「一過性でもいいから東京のTVで売れたい」という若手が多い中で、
「ティ-アップ」や「矢野兵動」に続けとばかり、地味でも漫才をコツコツやってくれる若手が今後増えてほしい・・・と。

正直私も40歳を過ぎるまで、こんなことは思わなかった。
そんなことを思うようになったのは、年齢のせいなのか・・・。
はたまた、今のTV番組に対するレジスタンスなのだろうか。

でも、晴れの舞台で大爆笑を呼んだ「矢野兵動」は、最高にカッコ良かった。
おめでとう!


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