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萩原芳樹のブログ
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月給8万円でプロダクションに所属した私。
歌とダンスのレッスン代を面倒見てもらい、初仕事を待ちわびていました。

事務所から、すぐに連絡があり、仕事先を伝えられました。
聞けば「浦和のキャバレ-」そして、「立川のキャバレ-」「小岩のキャバレ-」・・・なんと、いっきに一ヶ月のスケジュ-ル全てをキャバレ-の仕事で押さえられてしまったのです。

「まぁいいか、そのうちTVやラジオの仕事ももらえるだろうし」
とりあえずはキャバレ-のステ-ジ。
約30分ショ-を二回するのが仕事です。
その月、28日間も仕事が入っていて、連日重い荷物を持って出かける日々。

鞄の中には、衣装2着と、靴二足、そして譜面が6曲分入っていて、夕方のラッシュ時には、さすがにきつかったです。
何しろ仕事先は全て場末のキャバレ-で、ちょうど仕事帰りの通勤ラッシュに遭遇してしまうのです。

「昨日までのように、赤坂や新宿のクラブでショ-やってた方が良かったんじゃないかな」と、思ってみたりしましたが、それもこれも売れて行く為の過程・・・と、ガマンしました。

キャバレ-のショ-は、ほとんどウケませんでした。
20歳の若者が、それも当時東京人には馴染みのない大阪弁でしゃべる・・・東京の酔っぱらい中年客には全く関心がなくて当然です。

「こんな場末のキャバレ-で、酔っぱらい相手なんかに、やってられるかい」
そう思った日もありましたが、
「どんな状況にしろ、自分に与えられているのは、こんな仕事しか今ないことは事実。甘えた考えは捨てて、しっかり頑張らないと」と、自分を励まし続けました。

初舞台の名古屋で、「ル-キ-新一」さんのキャバレ-のお仕事に同行し、しゃべくり漫才で大爆笑を取ったル-キ-さんの偉大さに、改めて頭も下がりました。

事務所から、TVやラジオのオ-ディション話があるかと期待していましたが、全くその様子もナシ。

キャバレ-の仕事を終えて、最終電車を待って、駅のホ-ムのベンチに座っていたら、何だか涙が出て来ました。
「俺・・・いったい何をしてるのやろうか・・・」と。
隣りのベンチで酔っぱらいが幸せそうに寝ていました。

キャバレ-まわり時代の逸話、まだまだ続きます。
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赤坂の店での「ウェイタ-兼タレント」は、結局三ヶ月続けました。

ステ-ジを終えて、ウエィタ-として、客にオ-ダ-を運んだ時、とても嬉しいことを言ってもらったことがありました。
「ええっ?今ステ-ジでしゃべっていたの、アンタだったの?私はてっきり『小野やすし』さんが来てしゃべっているのかと思っていた」と。

小野やすしさんのしゃべりに間違われたことに、私は大喜びでした。
何しろ、私のしゃべりは、小野やすしさんを真似ようと努力していたのですから。

小野やすしさんといえば、「ドンキ-カルテット」というコミックバンドのMC担当。
「ドンキ-カルテット」といえば、あの「いかりや長介」さんが「ドリフタ-ズ」結成以前に所属していたグル-プ。
いわば、当時日本では一番オシャレで最前線のしゃべり・・・が、小野やすしさんだったからなのです。

しゃべくりは小野やすしさんの真似をしていましたが、芸となると「早野凡平」さんが憧れでした。
帽子芸ばかりが有名な方でしたが、今でいう一人コントを一早くやっておられた方。
当時は、そんなピン芸人を「ボ-ドビリアン」を呼んでいたのですが、私はボ-ドビリアンに憧れたいたのです。
(それから30年以上も経って、今では『R-1芸』とも呼ばれるようになったピン芸です)
そうなんです。
私自身、R-1のスタッフでありながら、実はまだ芽の出ない時代のR-1芸人だったのです。

「ウチの事務所に所属してやらない?」
何度かのお誘いの中で、「これは」という事務所がありました。
「TVやラジオのレギュラ-は、まず保証します。それから、歌とダンスのレッスンを徹底的にやってみませんか」というお言葉。

聞けばア-チスト系のプロダクションで、お笑い芸人は初めてとのこと。
「これだ!」と、早速食いつきました。

とりあえず所属して間もなく「自由が丘タレントスク-ル」に通わせていただいて、歌とダンスのレッスンを。
その時、肌のあさ黒い子供達が同じようにレッスンに通い続けていました。
「小汚い子供等やなぁ。売れる訳ないのに。親は余程子供をタレントにさせたいのやなぁ」と、思っていた子供兄弟がレッスン場にいたのを記憶しております。

その子供達が、わずか一年後に「フィンガ-5」としてデビュ-したのに、転げる程ビックリしました。
(3男のマサオ君とは、後に親しくなる訳ですが)

さてさて、そのプロダクションに所属して、月給8万円。
TVやラジオのレギュラ-をもらえるという約束だったのですが、これがまた、とんでもないことになります。
では、また・・・・。
「日劇」の専属になれる・・・私は勢い込んで、その四谷のプロダクションに行きました。

当時、「日劇」といえば、お笑い界では売れている方しか舞台を踏めない聖地のような存在。そんな大舞台に、それも専属で立たせてもらえるなんて、何てラッキ-なんだ・・・と、事務所に入りました。

昨夜、赤坂の店に来てくださっていた、その事務所の社長さんが待っておられました。
「よく来てくれたねぇ。君のステ-ジを見て、是非日劇でやってもらいたいと思ったんだよ」と。
その時、何げに事務所の周囲を見回した私は、壁という壁にある額縁入りのヌ-ド写真に驚きました。
「なんで裸の写真が、それも額縁入りで展示されているか」と。

素直にきいてみることにしました。
「あのぉ、この人達は?」
「ああ、これは全部ウチの専属タレントだよ」と、社長。

「?・・・裸の写真が専属?」
何のことだか、まだ私は理解していません。

「君の動き芸は、ストリップショ-に実にピッタリ合うと睨んだんだよ」
「?・・・ストリップショ-?」
「そうだ。日劇ミュ-ジックホ-ルだよ」

つまり、こういうことだったのです。
日劇の地下には「日劇ミュ-ジックホ-ル」というストリップ劇場があったのです。
そこは巷の下品なストリップ劇場では決してなく、ダンサ-も絶対に全裸になることもなく、ダンスショ-として高い評価を受けていた劇場だったのですが・・・。

「すみません。考えさせてください」
日劇が、まさか地下の劇場のことであったのとは知らずに有頂天になった私がアホでした。

でも、それから一年後、今度は本当に日劇の表舞台を踏ませていただくことに結果的になりました。
今はもうなくなった「日劇」ですが、その存在は有楽町のシンボルでもありました。
さて「春雨や雷蔵」さんの家にご厄介になりながら、赤坂の店で「タレント兼ウェイタ-」として働くことになった私。

連日、6時のショ-タイムから始まり、ラストの11時のショ-タイムまで、何と6ステ-ジをこなすことになります。

30分舞台でショ-をして(ゲストがいる場合は、司会だけで済むのですが)残り30分はウェイタ-として働くという一時間スケジュ-ル。

ウェイタ-の仕事など未経験だった私は、「お客さんに注文の品をテ-ブルに置く場合、上から置いては音を立てて下品になる。膝立ちして横から滑らせるように置く」等という基本を教わり、勉強しました。

お客さんの中には、ウェイタ-が片手間に芸人まがいのことをやってると思い、
「あんた芸人になりたいの?」等と言って来る人もいました。
「俺の今の舞台がそんな素人芸に見えたんかい!昨日までは大阪でバンバンTVに出てたんやぞ」と、心では思いつつ、顔では笑っていました。

でも、連日30分6ステ-ジは正直きつかったです。
まずは喋るネタの問題。
常連客が多いので、歌ネタは同じで行けても、喋りネタは毎回新ネタが必要です。
ウェイタ-として、客の灰皿交換をしながら、「次のステ-ジでは何を喋ろうか」と、ネタをくっていました。

私のタレント性を随分買ってくれていた店長も、同じネタをしたら渋い顔に。
どんどん新ネタを作り続けるしかなかったのです。
でも、その店長がある日のこと「五郎ちゃん(芸名は『団五郎』に改名していました)が来てくれてから、随分お客さんも増えて来たよ。今度ここでワンマンショ-やりましょう」と。

そして、赤坂の町中に看板を張り巡らし、上京して一ヶ月後に私はワンマンショ-をすることになったのです。
看板に大きく書かれたタイトルは「山本ヘンダショ-」
満員のお客さんになり、コスチュ-ム(店で用意してくれました)も山本リンダばりでの熱演をやりました。

その後、その店長は知り合いの新宿のクラブにも私を売り込んでくれて、週に一回は、赤坂のお店を休んで新宿のクラブにも出演できるようになりました。
それだけではありません。錦糸町の店にも紹介していただき、またそこでも週一回のステ-ジを。
まるでマネ-ジャ-のごとく私を売り込んでいただいた赤坂の店長。
ホントに感謝感謝です。

しかし、私は夜のショ-をする為に上京したのではありません。
東京で売れたいから上京して来たのです。

赤坂の店はTBSの近くだったせいか、芸能関係者も随分多かったです。
私のステ-ジを見て「ウチでやってみないか」と、声をかけてくださる方も何人かいらっしゃいました。
そんな中で、「日劇のレギュラ-として、やってみる気はない?」と、声をかけてくださった方がいました。

「日劇」といえば、銀座の名物劇場で「ウェスタンカ-ニバル」や人気歌手のワンマンショ-を常にやってる超ビッグな劇場です。
「そんな大劇場の専属だなんて・・・」私は、すぐに飛びつき、早速そのプロダクションと契約すべく足を運びました。
ところが・・・また次にお話します。
私は「葛飾区亀有」の、助三さん宅の二階三畳の部屋をお借りすることができました。
それにしても、2月の東京は寒かったです。
お布団は貸していただいたものの、一枚だったので毎日小さくなって寝ていました。(貸してもらっているのに贅沢は言えません)

赤坂の店を終えて私が帰って来るのは終電。
なので、朝は10時頃に起きて、ブラッと出かける・・・そんな毎日だったのですが、一階に下りると、「お味噌汁出来てますよ」と、助三さんのお母さんの声が。

一階の居間に行くと、白ご飯と、あったかい味噌汁が用意されていました。
「有り難うございます!」と、早速いただきました。

それから毎日、同じように味噌汁が準備されているのに、助三さんのお母さんの姿はありません。
が、珍しく顔を見せていただいたことがありました。
上品なお母さんでした。
「あなた、大阪を飛び出して上京して来たのですってね?それで、ご両親には連絡されてるの?」と。
私が首を横に振ると、お母さんはそれ以上何も聞こうとはされませんでした。
「ごちそうさまでした」と、逃げるように助三さんの家を後にしたのですが。

厳粛なご家庭でした。
話を聞けば、助三さんは、4人兄弟の末っ子で、上のお兄さんお姉さんの3人は全て東京大学卒業とか。

それに対して、末っ子の助三さんは、中学を出て「雷門助六」師匠に弟子入り。
勿論、大反対だったと思います。

そして、お母さんが私なんかに優しい理由がわかったのです。
助三さんは、弟子入り間もなく、一門のもめ事があり、失踪されたという過去があったのです。
結果的に、助三さんのご両親が、師匠に頭を下げて、戻していただいたと聞いておりますが。

自分の息子と同じように失踪した20歳の私を、他人事として放っておけなかったのでしょうね。

私は助三さんのお母さんに感謝しつつも、近所の安いアパ-トを借りて、一ヶ月でその家を出ることにしました。

引っ越しの日、助三さんは、一升瓶を抱えて私を訪ねて来ました。
「新居祝いだ」と。

身寄りもなかった私を、東京で迎えてくださったのは、心ある助三さん一家だったのです。
今でも感謝しております。
翌日、待ち合わせ場所に、助三さん(雷蔵さん)が。

「ビックリしたよ。大阪やめて、東京に出て来たのだって? 大阪では結構売り出してもらってたんじゃないの?」
助三さんが、大阪をやめて来たことを、細かく聞いて来ると予想していたのですが、深くは聞こうとしませんでした。

「キャバレ-の司会程度の仕事だったら、紹介することはできるけどね、でもB&Bの漫才は見たけど、ピン(一人)でどれだけ芸ができるのか、見せてもらえない?」
そう言って、連れて行ってもらった場所は、赤坂のTBSのすぐ傍にあった、今でいう「ショ-パブ」のような店でした。

聞けば、助三さんは、週一回の契約で、この店のステ-ジに立っているとか。
早速、店長に話してくださり、助三さんのステ-ジの後、紹介してもらって、私が舞台に立つことに。

助三さんは、着物姿で「小噺」をされていました。
そして、私が紹介されてステ-ジへ。
舞台には、ギタ-の方一人のパック演奏がついていました。
そこで、私が選んだのが「山本リンダ」さんのモノマネ芸です。

モノマネといっても、声をマネする訳ではなく、派手なアクションを更にデフォルメして踊りまくるという芸。
今では「エア-○○○」という芸が普通になっていますが、当時まだ誰もやっていなかった「エア-山本リンダ」でした。
私が下品セクシ-に踊り始めると、場内は大爆笑。
その頃大ヒットしていた「どうにも止まらない」と「狙い打ち」でした。
(実は、以前から飲み屋でチョクチョクやって絶対にウケると確信していたのですが)

ステ-ジを終えると、助三さんはビックリしたかのような表情。
そして、店長がすぐに来て、
「あの、ウチと専属契約をしていただけますか?」と。
「専属って、いくらもらえるのですか?」と、聞くと、
「週一回のステ-ジで、一回1万円です」と。
嬉しいお話でしたが、月4万円では生活して行けません。

「あのぉ、それよりも、この店のウェイタ-として雇っていただけないでしょうか?」と。
結局「ウェイタ-兼専属タレント」という契約を。
ウェイタ-の月給が6万円。専属タレントとして毎日6ステ-ジをこなして、月に「芸能手当」として2万円。
でも、東京で毎日ステ-ジに立てることになったことに、私は喜びを感じていました。

それよりも、住まいの問題です。
「ウチは下宿家もやってるから、親に話して無料で部屋を開放してもらうよ」と、助三さんからの大変有り難いお言葉。

私はお言葉に甘えて、早速「葛飾区亀有」の助三さん宅の3畳の部屋に、その日から寝泊まりさせていただくことになりました。
お布団も貸していただき、本当に全てお世話になってしまったのです。

しかし、この助三さんの、ご家庭・・・普通のご家庭ではなかったのです。
また次にお話します。


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