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萩原芳樹のブログ
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「昭和の芸人」さんシリ-ズですが、今日からは「私の20歳の上京」で、お世話になった方々について綴って行くことにします。

昭和47年2月1日・・・私は新幹線に乗り、東京へと向かっておりました。
懐の所持金は、僅か10万円。
その日はB&Bとして「なんば花月」出番の初日でした。
そうなんです。
TVのレギュラ-や、舞台に穴を開けて、私は勝手に東京に旅立ってしまっていたのです。

「このまま大阪で漫才を続けていてどうなるんや・・・」
以前のブログにも書きましたが、私なりの大胆な決断でした。

吉本興業さんは、我々のことを良くしてくださいました。
「久しぶりの大型新人」として、実力以上に売り出していただきました。
しかし、その実力以上が気に入らなかったのです。
「力もない者がTVで売れても、いずれは消えて行く」
そんな不安からの決断でもありました。

東京での再スタ-トに関しては、一応アテはありました。
近所(玉出)の東京から来た友達のバ-テンに紹介してもらった店があり、暫くはそこで働くつもりでした。
浅草のクラブで、由利徹さんを始め、多くのコメディアン常連のクラブとか。

そこで働きながら、再スタ-トと思っていたのですが・・・。
いざ面接に行ってみると「三浦?そんな男、知らんなぁ」と、紹介状を見て店長が。
愕然としました。
そして「ウチで働きたいのなら、保証人が必要」と。
身寄りもない東京で、保証人などいる筈もありません。

「いざ東京に来てはみたものの、今後どうしたら良いものか」
とりあえず安い旅館を見つけて、策を考えるしかありません。
その時、思い出した人物が一人いました。
名古屋の大須演芸場で、初舞台の時、一緒の出番だった落語家のタマゴ。
「雷門助六」師匠のお弟子さんで「雷門助三」さんです。
(現在は「春雨や雷蔵」として活躍されております)

早速電話をして、翌日とりあえず会えることに。
この助三さんのお世話で私は、再スタ-トを道を歩めることになります。
(「がばい婆ちゃん」では、「助三」さんが「豆吉」という名で紹介され、盗癖があるというとんでもない弟子となって登場していますが、そんな人では決してありません)

翌朝、旅館の仲居さんに起こされて目覚めました。
仲居さんは、部屋の窓を開け、
「今日は富士山が綺麗に見えてるわ。あんたも見てみ」と。

東京で再スタ-トしようと思った朝の富士山は遠くでしたが綺麗でした。

そして、その日「助三」さんと会うことから、東京芸人の第一歩が始まったのです。
「20歳の旅立ち」です。
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新喜劇の「井上竜夫」さんに関しての続きです。

私が中学2年の時、まるで「ダメ出し」のような失礼な手紙を書いては、井上さんから「そういうけど、誰もがギャグやってたら、芝居は成立しない」という内容のやりとりが、まるで文通のように続きました。

今の新喜劇はよく知りませんが、以前の新喜劇は「懸命に役作りに励み、芝居に専念しよう」という役者さんが、それだけ多かったのでしょうね。

井上竜夫さんは、新喜劇の名脇役として貴重な存在でした。
しかし、同じ「老け役」の「谷しげる」さんから、「漫才コンビを組まないか?」と、誘われて一時新喜劇から離脱されます。

当時、新喜劇よりも漫才の方が収入も良く、何よりも「漫才は二人が主役」です。
「ザ・どっきんぐ」というコンビを結成され、花月の舞台で若々しい漫才に転向されていました。

そんな頃でした。
私は「B&B」として花月にデビュ-。
うめだ花月で一緒の出番になる機会がありました。
丁度舞台の袖に、私と井上さんの二人きりになった瞬間がありました。

「井上さん、姫路の萩原という奴、覚えてはりますか?」と、私が聞くと、
「ああ、ふざけた手紙をようくれてた中学生や。君、萩原君の友達か?」
「いえ、実は僕・・・その萩原なんです」と。
驚いた井上さん、「君・・・芸人になったんか」と。

それから、出番が一緒になる度に「お茶行こうか」と、井上さんと何かとお話する機会も増えました。

そして、私が作家となり、井上さんのセリフを書かせていただくことに。
何か不思議な気持ちでした。

その「どっきんぐ」というコンビですが、井上さんが病に倒れ、相方は吉本をやめて行き、井上さんは病床で先行き不安に悩まれる時期があったようです。

そんな時、作家の「檀上茂」さんが、お見舞いに現れ、
「また、新喜劇の老け役に戻ってくれ」と。
そして「今、ABCで放送している『あっちこっち丁稚』を見てくれ。舞台の下手に隣りの家からの木戸があるやろ?あれは、オマエが復帰したら、隣りの隠居の役で出て来る木戸や。もう準備してるんやで」
そんな優しい言葉に、井上さんは涙して、新喜劇に復帰されたようです。

最近余りお会いするチャンスも少なくなってしまった井上竜夫さん。
でも「竜爺」の顔を見たら、中学時代を懐かしく思い出してしまうのです。
「お茶子のブル-ス」終わりましたが、このブログでは私の思い出の昭和芸人さんに関して綴らせていただきます。

まずは、新喜劇の「井上竜夫」さんについて。
「井上竜夫」さんといえば、新喜劇の「老け役」として知る人ぞ知る存在ですが、実は半世紀近くも、ずっと「老け役」ばかりを続けて来られた方なのです。

高校時代、演劇部に所属して、すでにその頃から「老け役」を。
卒業後、更に「老け役」を極める為、松竹新喜劇の老け役だった「曽我廼家五郎八」さんに弟子入りされます。
そして、吉本新喜劇に入団、20代からずっと「老け役」一本で通して来られました。
「のび太」や「サザエさん」が年をとらないように、井上竜夫さんも、50年間、ずっと老けたままなのです。

若くして老け役をする為に、随分努力もされたようです。
背中を丸くする為、毎日高い枕で寝続けることによって、自然に背骨が丸く曲がって来たことに喜びを感じられたとか。
それほど本当は、役作りに熱心な方なのです。

そんな井上竜夫さんに、私は中学2年の時、手紙を出したことがありました。
「花月のポケットミュ-ジカルでは、ボケ役であれだけ爆笑を取れる井上さんが、何故新喜劇になるとギャグをしないのですか?」という内容。

当時、花月では「ポケットミュ-ジカル」という出し物があり、新喜劇の若手中心にコントをやっていました。
たまたま私が花月に行った時、井上さんがボケ役をしていて、大爆笑となりファンになってしまいました。

ところがTV中継される新喜劇では、全くギャグをやらない単なる老け役に、ファンとなった私はイライラして、そんな失礼な手紙を出したのでした。

井上さんから返事がありました。
「芝居というのは、みんなが勝手にギャグをやったら潰れてしまう。キチンと芝居の筋を運ぶ役目も必要なんです」と。

そんな返事をもらった私は、また井上さんに手紙を書きました。
「他の人よりも、井上さんにボケてほしい」と。
「昨日のTV中継の役では、こんなポイントでボケられるのではないですか?」等と、大変失礼なことを書いたのです。

またしても井上さんからの返事が。
「そう言うけど、私がボケたら芝居は潰れてしまう。芝居が成立していてこそ、初めてギャグも生きるのですよ」と。

今から思えば、井上さんのおっしゃってることは当然のことなのですが、姫路の中学生にとっては、大好きな井上竜夫さんがボケないことにイライラしてたのです。

そんな手紙のやりとりが、7~8回も続いてしまいました。
まるで文通していたかのようになってしまっていたのでした。

井上竜夫さんとのお話、まだまだ続きます。
「お茶子のブル-ス」
15日というロングラン公演を終えました。
観に来てくださった皆様、本当に有り難うございました!

千秋楽には、あの「昭和の歌姫」こと、「大西ユカリ」さんが、来てくださいました。

終演後、楽屋へ。
どんな感想を述べられるのか、少しドキドキでした。
何しろ、昭和を歌わせたら日本一のお方です。

「凄く面白かったです。いいお芝居でしたね。キッチリ計算されているなぁと感心しました」と。
「それから、シュ-クリ-ムが減って行く数をチェックしていたのですが、ピッタシ合ってましたね」

ユカリさんならではの、実に芝居の細かい部分を観ていたのかという感想でした。
有り難うございました。

終演後の打ち上げでは、阪神さんや、きん枝さんも参加していただき賑やかな宴会となりました。

私は、この一座のみんなが大好きです!
そして、支えていただくお客様には本当に感謝の気持ちで一杯です。

また秋に次の公演を予定しています。
どんな内容なのか・・・また、このブログで少しずつ報告します。

京橋花月に足を運んでいただいた皆様、本当に有り難うございました!
「お茶子のブル-ス」
14日目のゲストは「大平サブロ-」さんでした。

舞台の袖で、熱心にみんなの熱演をご覧になってたサブロ-さん、
「僕も4~5人でやる芝居をやりたいなぁ」
と、ご自身も芝居心に火がついた様子。
もしやるとなれば、勿論全面協力させていただきます。

さて、以前クイズとして申し上げていました件について。
この芝居は昭和44年の物語ですが、一つだけ昭和44年にまだなかったモノが出て来ます・・・と気になることを綴っていましたが、今日は正解を発表します。

最初は二つと思っていたのですが、その一つは昭和43年に始まったとわかり、一つにしました。
その実は昭和43年に始まっていたのが、「ゲゲゲの鬼太郎」のTV放送です。

劇中、モ-レツ7のわたる(おしどりのケンちゃん)が、テルミンで
「ゲゲゲの鬼太郎」のテ-マを思わず演奏してしまうシ-ンがあります。
最初の調べでは、「ゲゲゲの鬼太郎」放送開始は昭和45年と勘違いしてました。

さて、その一つの間違いですが、劇中でゲストの方々演じる「遊笑」師匠の去るシ-ンでのセリフです。

「ワシの大事なカツラ、どないしてくれるねん!あれがなかったら舞台に上がられへんやないかい!困ったなぁ・・・しゃあない、ジャスコで買うて来るわ」
というセリフがあるのですが、実はジャスコができたのは、翌年の昭和45年のようです。
ダイエ-はその頃あったので、ダイエ-でも良かったのですが、何かジャスコの響きの方が好きなので、その年なかったジャスコをセリフにしてしまいました。

正解の方には何かプレゼントしたかったのですが、残念ながら解答者ゼロ。有り難うございました。
難問すぎましたよね。

さて、明日はいよいよ千秋楽。
ゲストは「オ-ル阪神」さんです。


「お茶子のブル-ス」
13日目のゲストは「大木こだま」さんでした。

今日は私、ABCホ-ルでラジオ番組の公開録音があり、終えて京橋花月に駆けつけたところ、ちょうどゲストの方のアドリブ芝居が終わってしまったところでした。

話に聞けば、「こだま」さんは前回とは全く違う内容のアドリブ芝居をしてくださったとのこと。
わざわざネタを準備してくださったのですね。
「こだま」さん、本当に有り難うございました。

ラジオの件ですが、桂吉弥さんの「とびだせ!夕刊探検隊」という番組で、放送は3月30日(月)19:00~19:30の予定です。
ゲストとして呼んでいただき、「昭和の芸人話」をしてまいりました。
良ければ聴いてみてください。
勿論「1008 ABCラジオ」です。

「お茶子のブル-ス」が昭和の芸人さんのお芝居のせいか、
最近よく「昭和の芸人の話をしてほしい」というリクエストがあります。

またベテラン芸人さんからも、昔いた余り知られていない芸人情報も寄せられて来たりします。
先日「若井みどり」さんからの情報で、「若井はんじけんじ」さんの一番弟子に「若井ろくじ・はちじ」という方がいらしたことを知りました。

ああ、私はいつの間にか「昭和芸人の生き字引」のようになってしまうのでありましょうか。
でも、まだまだ新しいことにチャレンジする気持ちで一杯ですヨ。

「お茶子のブル-ス」あと2公演。
明日のゲストは「大平サブロ-」さんです。


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