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萩原芳樹のブログ
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さて、渡米した京一はバイトしながらロスのパントマイム学校に通い始めました。
本当の芸を追求したかったのでしょう。

そして数年後、パントマイムの芸を身につけて大阪に戻って来ました。
でも、一人ではありませんでした。
ロスでパントマイムの先生といい仲になり、結婚を認めてもらう為の帰国でもありました。

何年かぶりに息子に会えると空港まで出迎えに行ったご両親。
息子と一緒にタラップを下りて来た黒人女性が、いきなり「パパ!ママ!」と、抱きついて来たのにビックリ。

帰国後彼等夫婦は予想通りマスコミで騒がれ、「紅白歌のベストテン」に夫婦揃ってレギュラ-出演など華々しい芸能活動を続けます。

その後何があったのか私もよく知らないのですが、京一は「ソ-バットレビュ-」というロックバンドを結成。
関西を中心にロッカ-として活躍します。

でもまた彼は日本からいなくなってしまいました。
一度本場米国の味を知ったら忘れられなくなるのでしょうか・・・。

そんなこんなでそれからまた10年後、私は帰国した彼と偶然出会うのです。
私は彼の為に特別番組をテレビ局にお願いして作ってもらいました。

それは「昭和の浦島太郎」
長い間大阪を留守にしていた彼がすっかり変わった大阪を見て驚くという番組。

彼は今、パントマイムの日本の第一人者であり、今もロックを歌い続けているステキな50代です。

そして、相方の京二はつい最近まで自分のバ-で弾き語りを続けていた男。
私も酔っては二人でブル-スを夜更けまで歌ったものでした。

以上が「らん子のブル-ス②」で「フレンド2」のモデルだった北京一京二さんのお話です。

私の思い出に深く残る昭和の芸人さん・・・次はどなたのお話にしましょうか・・・


 

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「このまま大阪で漫才続けてても、売れるまで10年辛抱せなアカンで」

京一と私は今後二人がどう歩むべきかを真剣に語り合いました。
「アメリカに行くというのはどうや?」
私が酔った勢いで言いました。
「あの横山エンタツさんも、渡米してロイド眼鏡にチョビ髭という当時オシャレな風貌で帰国して、それを認められてエンタツアチャコが誕生したくらいやから。今の俺達なら一年ほど渡米するというのも、一つの方法と違うか?マスコミがまず騒いでくれるしな・・・」

当時私は20歳で、京一は22歳。私は自分で選んだ芸人人生に不安を感じてそんな言葉を発したのですが、京一はもっと真剣に自分の芸という点について考えていたのだと思います。

結局暫くして、私は吉本を勝手にやめて渡米?・・・する勇気もなかったので東京へ。

そして、京一はコンビを解散してホントにロスに行ってしまったのでした。

その後渡米した京一はどうなるのか・・・また次にお話しましょう。
では、「北京一京二」のコンビについて述べることにします。

昭和46年に漫才コンビとして松竹の角座デビュ-。
京一は「きん枝」さんと高校の落語研究会の同級生で、ゼンジ-北京さんのコ-ケン「二代目ゼンジ-一億」でした。
京二は、「ファンキ-プリンス」という大阪では3本の指に入る人気グル-プサウンズのボ-カリスト。

こんな今までに寄席の世界には存在しなかった若者人気の匂い満載のコンビが私(初代B&B)のライバルでした。
漫才は決して面白いとは言えなかったのですが、R&Bも歌うケッタイな奴等で、まぁ10年早かったというか、20年早かった漫才コンビです。

吉本の花月の舞台に立っていれば、間違いなしに「今のさんまさんの地位」を築いていたコンビだったのかも知れません。

まずコスチュ-ムからして、当時の新人アイドルの郷ひろみや、西城秀樹なんかよりもカッコ良かったし。

当時の雑誌「明星正月号」に、そんな京一京二と、我々B&B、そして「志村けん」のドリフ前の「マックボンボン」が、「東西のお笑い若手ライバル」という記事で紹介されました。

京一とはいろんな仕事場で会っては、一緒に飲む機会も多かったです。
そして、二人口を揃えてこんなことを喋っていたものでした。
「今の関西のお笑いブ-ムはそろそろ終わりやな」
「ブ-ムが去って、地味な寄席芸人としてやって行けるか?」
「お笑いブ-ムも波があって、また10年後には何とかなる。10年辛抱したらええんやけど、俺は嫌やな」
「俺も嫌や」
二人の予感は的中し、関西のお笑い界は暫くして秋風が吹き始めました。
そして、二人の予感通り、それから約10年後にあの「マンザイブ-ム」が到来したのです。

二人は夜のミナミで、互いの夢を語り、新しい人生の冒険に向かってスタ-トすることにしたのです。

その冒険は現実に当時のマスコミを騒がせる大きな事件に発展。
さて、その事件と冒険とは・・・・。
また続きます・・・・。
昭和47年、「ヤングお-お-」を中心に関西はお笑いブ-ムのまっただ中でした。

その頃私は「B&B」として花月の舞台に立っていました。

あれは確か読売TVのコメディ番組でした。
憧れの可朝師匠と共演することができたのです。
役は可朝師匠が社長で、私はその秘書。
喜んで台本を手にすると、台本に私のセリフはありませんでした。
ただ秘書として社長の後ろに立っているだけの役。
「これじゃTVに出ている意味がないなぁ」と思った私はリハ-サルで勝手にセリフを作ってやったところ、
「オマエは喋らんでええ!」と、ディレクタ-から叱られる始末。

ヘコんで楽屋にいると、「何かやりたいんやろ?」と、可朝師匠が声をかけてくださいました。
「こうボケてみ。ワシが突っ込んだるから」
と、可朝師匠から、おいしいホケを提供していただいたのです。

結果、本番は爆笑。
無名の新人にこっそりアドバイスをされる優しさには本当に感謝・感謝でした。

そんな可朝師匠をモデルにした役が「お茶子のブル-ス」に登場します。
サブロ-さん、こだまさん、阪神さん、おさむさん、まさとさん、きん枝さんが日替わりのその役を演じてくださいます。
お楽しみに!

昨年は「らん子のブル-ス」で、昭和の女芸人の人生を三部作でお送りしましたが、
そのお芝居の中で、「フレンド2」というグル-プサウンズ崩れの漫才コンビを登場させました。
実はその「フレンド2」のモデルは「北京一京二」という私達と同期の漫才コンビです。
次回は「北京一京二」について述べることにしましょうか。





可朝師匠は先代林家染丸師匠に弟子入りし、染奴という名前が落語家としてのスタ-トだったそうです。
落語に関してはズブの素人だった染奴、「師匠の脱いだ着物を片づけるのが弟子の仕事」
そう教えられて、舞台で師匠が着物の羽織を脱いだ時、「片づけなければ・・・」と、
舞台上に行き、羽織を片づけて爆笑になり、師匠に思いっきり怒られたこともあったそうです。

その後、染丸一門から、米朝一門に移り、桂小米朝から月亭可朝を襲名されています。

参議院選挙に立候補された時の公約は「一夫多妻制にする」「銭湯の男風呂と女風呂の壁をなくす」
落選されましたが、そんなふざけた公約に投票した人がいるから面白いですよね。

高座では「いや、ホンマ・・・ホンマにホンマやからね・・・」と、ホンマしか喋らずに20分間続けたという記録があります。
訳わからないのですが、何故か笑いは膨らんで最後は大爆笑となった伝説の舞台。
まさに芸術と称してもいいんじゃないでしょうか。

「R-1ぐらんぶり」が今年も2月に全国ネットのゴ-ルデンタイムに放送されます。
ピン芸と呼ばれる一人芸の頂上決戦ですが、「R-1」の「R」は落語のRです。
吉本興業のお偉いさんが、「M-1で漫才が活性化した。次は落語を活性化しなければ」としてスタ-トしたのですが・・・
でもコンテストで短時間勝負というル-ル上から、インパクトの強いピン芸が今や「R-1芸」と呼ばれるようになってしまいました。

昭和40年代、可朝師匠はすでに「R-1芸」を確立されていたのです。
もしも、その時代に「R-1」が存在してたら、ぶっちぎり優勝間違いなしだったでしょうね。

まさに奇才の可朝師匠・・・でも本当は優しい一面がある方です。
私が漫才師だった昭和47年、私はそんな優しい可朝師匠に触れることができました。
どんなことかと申しますと・・・それはまだ次にしましょう。

可朝師匠といえば、何といっても「嘆きのボイン」の大ヒットですが・・・。
昭和44年頃、可朝師匠は桂小米朝から月亭可朝を襲名されたばかりの頃でした。
その頃、毎日放送傍のミリカプ-ルでプ-ルサイドショ-があり、後のアリス(当時はロックキャンディ-ズ)等当時のアマチュア人気フォ-クグル-プの中で「何かやらなければならない」
そんな時にギタ-片手にヤケクソ気味にやったのが「嘆きのボイン」の誕生と聞いております。
しかし、実は可朝師匠はその前に「バイオリン漫談」なる非常にシュ-ルな漫談を一度だけ披露されていたのであります!
どんなネタかと申しますと、チュ-ニングされていないバイオリンを、メッチャ下手な可朝師匠が弾きながら、普通に漫談を続けるという芸。雑音漫談とでも申しましょうか・・・。
当時高校生だった私は、深夜の「ヤンタン」で聴いてヘタって笑い転げた記憶があります。
不快感極まる音を発しながら、普通にベタな漫談をする人・・・まさに天才芸人と尊敬してしまいました!
そんな可朝師匠も、やがて吉本を離れて、国会議員に立候補して、どんどん破綻の人生を自ら歩んで行かれます。
でも、本当は後輩に優しい素晴らしく気配りのできる素晴らしいお方なのです!
次回はそんな優しくも破天荒な可朝師匠を私なりにご紹介したいと思います。



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