萩原芳樹のブログ
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戦国時代、戦場での働きが要求される武士の主食は、通常「お米」や「玄米」でしたが、忍者の主食は、雑穀の「おかゆ」や「豆腐」であったようです。
しかも、忍者は敵に忍び込む際、体臭があってはバレてしまうので、「ニラ」「玉葱」など匂いのする食べ物は避けていたとか。 勿論「肉」も禁止です。 でも、魚の採れない伊賀の里では、タンパク源はどうしていたのでしょうか。 鈴鹿山脈には、当時は鹿もいたようですし、猪もいました。 おそらく忍者の技(鎌手裏剣などを使った)で、鹿や猪を射止めては、食べていたのではないでしょうか。 また、敵に侵入した時に懐に入れていた「忍者の非常食」も、いろいろあったようです。 (この非常食に関しては、また改めて詳しくお話します) 今回の「女忍のブル-ス」でも、忍者の食事シ-ンがあります。 これが実に面白い!(自分で言うのも変ですが) 現在、脚本段階の途中ですが、自分で何度も読み返しては、「プッ!」と、笑ってしまったりします。 これは、脚本家ならではの「幸せのひととき」 まぁ、「一人よがり」かも知れませんが。 私の抱いた構想と、登場人物とが合体して生み出す世界なのです。 そうそう。思い出しました。 三河の「徳川軍」が何故強かったのか・・・実は、食事に秘密があったのです。 次にまたお話します。 PR
今日、帰宅して郵便ポストを開けると、私宛に一通の手紙が。
裏を見ると、差し出し人は「伊賀の忍者」だった。 えらいものだ。私が伊賀忍者の芝居をするというのを、さすが伊賀忍者、どこで聞きつけたのか、早速手紙を寄こして来たのである。 中を開けると、なんと大変嬉しいプレゼントが入っていた。 実は来週、私の事務所の夏旅行がある。 今回選んだ旅行先は、「合歓の郷」 伊賀忍者は、その旅行先も知っていてのプレゼントのようであった。 有り難う!伊賀の忍者「蛍火のお蝶」さん。 *忍者の詳しい情報、まだまだ続けます。
さて、子供の頃から忍者修業を積んで来て、一人前の忍者になって行く訳ですが、それは全て「下忍」と呼ばれる忍者の労働者階級。
「上忍」と呼ばれる親方が、各地の大名から忍者の発注を受けては、下忍達を派遣させて行く訳ですが・・・。 下忍達は、常に命がけで仕事をする割りには、報酬は微々たるものだったようです。 そこで、余りにも割りに合わない仕事なので、脱走する忍者もいたとか。 「抜け忍」というう奴です。 でも、「抜け忍」を見逃しておいては「しめしがつかない」と、上忍は追手を送り、見つけ出されて殺されたとか。 何か一昔前の不良グル-プのようですね。 で、逃亡に成功した忍者達は、その後どんな暮らしをしたのでしょうか。 一説によると、京に上り、三条河原に「掘っ立て小屋」を作り、その前で大道芸人のようなことをしていたとか。 考えてみれば、忍者の技の中に「ここにいるぞ」と、思わせておいて、実は別の場所に潜んでいて、相手を倒す・・・というカラクリ技がありますが、その技を芸として使えば、いわば「イル-ジョン」のようなことが簡単に出来たらしいのです。 戦国時代の京の町は荒れ果て、町の何分の一かは焼け野原に。 家を焼かれた人達は、この三条河原に集まり、踊りを見せて日銭を稼いだりしていたようです。 いわば芸人の原点が、実はこんなところにあったのですね。
さて、一人前の忍者になる為には、随分と厳しい修業を子供の頃からさせられていたようです。
地元の伊賀で生まれた子供は勿論のこと、多方面からも子供が連れて来られて忍者修業をさせられていたとか。 その代表的なのが、南大阪の河内辺りだったようです。 河内と伊賀は、奈良時代から間道があって、行き来しやすい場所。 そこで、伊賀の上忍達は、農家の次男坊や三男坊を金で買っていたようです。 農家は今でもそうですが、長男が跡継ぎをして、次男以下は外に出なければなりません。 まだ物心もつかない年頃に、河内の農家から伊賀に連れて来られて、無理やり忍者修業させられていた子供がいたと思うと、胸が熱くなります。 「女忍のブル-ス」でも、この環境で忍者になった人物が登場します。 それは誰なのか・・・本番のお楽しみにしておきましょう。 それともう一つ、伊賀に連れて来られた子供の中には、「戦国時代の戦災孤児」もいたようです。 合戦に巻き込まれて両親と離ればなれになってしまった子供や、両親を亡くしてしまった子供を、伊賀の上忍が見つけて、忍者として育てたらしいのです。 こちらも、そんな環境で育った忍者が「女忍のブル-ス」に登場します。 お楽しみに!
では、薩摩の「島津義弘」が行った戦術について述べます。
戦国武将は、戦いになると地元の「お百姓さん」をも借り出して槍を持たせたりしたものです。 戦いには「野戦」と「城攻め」があります。 「城攻め」では、攻められる方は城に籠城して戦う訳ですが、「島津義弘」はこんな「城攻め」をしたという記録が残っています。 それはちょうど米の取り入れ時期の秋のこと。 「城攻め」しようと城下にまで迫った「島津義弘」は、何と「田を焼け!」と、命じたのです。 城に籠城していた「お百姓さん」達は、自分の田が焼かれているのを見て、慌てて火を消しに田に向かって行ったとか。 田植えから大切に育てた稲が、やっと刈り入れ時期なので、みんな必死。 そして、籠城する兵が減ったのを見て、「城攻め」をしたと言われています。 戦国時代の戦いは、主に春から秋にかけての季節が多かったようです。 さすがに冬の進軍は野宿などを考えると困難だったのでしょうね。 逆に、忍者のスパイ活動は冬の時期が多かったとか。 次の春の合戦に備えて情報収集をしていたのでしょう。 ですから、忍者も春から秋にかけては「小作人」となって農業に従事することも多かったとか。 しかし、敵が侵入すると、農作業していた鎌を敵の後ろから投げて殺すという「鎌手裏剣」も使っていたようです。 現在、この「鎌手裏剣」の使い手は日本でも数えられる程しかいらっしゃらないのですが、今回の「女忍のブル-ス」の殺陣指導をしてくださる「小沢真太郎」さんは、「鎌手裏剣」の達人でもあります。 (でも、危険ですから芝居では使いませんが・・・) 「女忍のブル-ス」現在執筆中ですが、一つ訂正させていただきます。 チラシの裏側に「伊勢松ヶ島城主の北畠信雄」と載せておりましたが、正しくは「伊勢田丸城主」の誤りでした。 北畠信雄が松ヶ島城に居城を移すのは、この物語の翌年「天正8年」のことでした。 歴史にお詳しい方、失礼を致しました。
さて、忍者と一口に申しましても、当時の伊賀忍者には組織があり、忍者の中でも身分があったようです。
まず、伊賀忍者として有名な「服部半蔵」は、上忍。 当時、伊賀には「服部家」「藤林家」「百地家」の3上忍がいたようです。 (「女忍のブル-ス」は、この中の「百地家」の話ですが) 上忍は、各地の大名から忍者の発注を受けて、中忍を通じて下忍を送り込むことになります。 今で言えば、上忍は「派遣会社の社長」であり、中忍は「中間管理職」、下忍は「派遣社員」のようなものです。 ですから上忍としては、極力多くの下忍を抱えていた方が、儲かったということになります。 物語に登場する「猿飛佐助」等、忍者ヒ-ロ-はこの下忍が主流となることが多いです。 今回の「女忍のブル-ス」も、主に下忍仲間の物語。 そこで、下忍が常に忍者活動をしていたかといえば、決してそうでなかったようです。 では、発注のない下忍達は何をしていたのか・・・。 実は「小作人」もかねていたのですね。 それも、上忍の田畑を耕しては、わずかの銭をいただいていた身分。 忍者修業中の少年達は、早朝から農業をして、午後に忍者修業を積むという日々だったようです。 よく考えてもらえばわかるのですが、「忍者の扮装」は、当時のお百姓さんのスタイルなのです。 それに、当時は手裏剣よりも、鎌を投げるという技の方が凄かったとか。 当たり前ですよね。あんな小さな手裏剣よりも、農作業で使う鎌を投げた方が殺傷能力に優れていたことがわかります。 戦国時代、忍者のみならず、戦いになると百姓の人達も随分と、槍を持たされ戦場に行かされていたようです。 そこで、薩摩の「島津義弘」という有名な武将は、それを逆手に取った戦術を使ったとか。 また次にお話します。 |
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