萩原芳樹のブログ
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結局「オジャマンないと」は、「高原兄」「柳沢慎吾」「越前屋表太」の3人でスタ-トすることになりました。
一回目の収録前に地元記者の人達に集まってもらって、記者会見を。 私も同席しました。 「どんな番組ですか?」の質問に。 「名古屋の人達とふれあう『ハ-トウォ-ミング番組』です」と、プロデュ-サ-が。 「具体的に、どんなことをされるのですか?」の質問に、 「とりあえず一回目の今日は公園でデ-トしているアベックを覗きに行きます」と、私が答えたところ、 「そんな番組、成立する訳ないじゃないですか!」と、記者さんのお言葉。 「成立するもしないも、現に今からやるのですから」と。 記者さん達は、呆れていました。 スタ-ト時、局内でも「そんな無茶な番組、すぐに終了する」と、囁かれていたようです。 そしてロケ現場へ。 公園でデ-トしているカップルに、カメラさん、タレントが茂みの中から急に姿を見せて、「どうも!何やってるの?」と、突然マイクとカメラを向けるのです。 勿論、事前に仕込みなんかいっさいしていません。 ガチなので、アベックは慌てて逃げ出すか、怒り出すカップルもいました。 でも、何組も失敗を繰り返すうちに、やっと話を聞けるカップルに遭遇。 そして、カップルに恋愛事情を詳しく聞き、公園内で愛の告白シ-ンなんかを即興でやったりしました。 最後は番組特製の屋台で飲みながら更に話を。 (この番組は「オジャマン屋台」というのを作っていて、その屋台が番組基地となり、毎週あちこちに出没するという内容です) そして、お別れに今日出逢ったお二人の歌を「高原兄」さんが即興で作って歌うのです。 女の子は涙をうっすら浮かべていたのを記憶しています。 この日から毎週ロケを続けること10年。 毎回企画を変えてやることにしていましたので、スタッフも活気にあふれ、私も毎週新企画を試すことができるので大変勉強になりました。 「オジャマンないと」は私のライフワ-ク・・・と、その頃よく思っていたものです。 (PS) 9月京橋花月公演「女忍のブル-ス」の予告を、間もなくこのブログでも開始しますが、もう少しだけ「オジャマン」の話を続けます。 PR
さて、「名古屋テレビ」(今は『メ-テレ』ですが)の深夜番組は「オジャマンないと」と、タイトルも決まり、キャスティング段階に。
「オジャマンないと」・・・つまり、番組コンセプトは「名古屋の夜の人々の心の中にオジャマしてみよう」ということ。 夜に働いている人、酔っぱらっている人、亭主の帰宅を待ちわびている主婦・・・等、様々な人とのふれあい番組にしようという訳です。 プロデュ-サ-とキャスティングの話を進める訳ですが、なかなかいい人材が思いつきません。 東京で売れているタレントさんは、ギャラ的に難しいし、ましてや名古屋でロケ番組なんかを引き受けてくれる筈もありません。 「名古屋出身で、これ・・・というタレントはいないのかなぁ」と、話をしているうちに、 「完全無欠のロックンロ-ラ-を歌っていた『アラジン』のボ-カルはどうなの?」と、私が。 「確か、名古屋の大学に通っていたと聞いたけど」 プロデュ-サ-が、早速調べて、『アラジン』のボ-カル「高原兄」さんと連絡を取ったところ、どうも乗り気でない様子とか。 仕方なく私が、東京でお会いすることになりました。 場所は渋谷の喫茶店。 待ち合わせの時間前に、その喫茶店に行ったところ、店はガラガラ。 私の横の席で、地味な青年が一人でコ-ヒ-をすすっているだけでした。 「まさか、この青年が、あのボ-カリスト?」と、思いもしたのですが、TVで拝見していたサングラスでバリバリのロックンロ-ラ-とは、ほど遠い存在でした。 暫くすると、彼の事務所の社長が現れ、喫茶店で呼び出されて、やっと社長とご挨拶を。 すると社長が「あれ?高原君、もう来ていたの?」 なんと、私の横の席にいた地味な青年こそ、アラジンのボ-カリストだったのです。 私は、新番組の企画書を見せて、番組主旨を熱く説明を。 彼は終始弱り切ったような顔で、俯き加減で聞いていました。 聞けば、「アラジン」は、すでに解散していて、「ニッポン放送」のパ-ソナリティをしていたのですが、それも最近首になったばかりとか。 「俺、もう人前に出るのは、やめようと思っているんです」と。 今は作曲の勉強をしていて、作曲家として今後生きて行くつもりだということを聞かされました。 「だったら、毎週ロケで出逢った人の曲を、毎週書いてよ。ロケでは喋らなくていいから。みんなの後からついて行くだけでいいから。お願い」 私は、しぶとく粘りました。 彼も「それなら」と、やっと承諾を。 「でも、俺名古屋の大学に通っていただけで富山の人間ですよ」と。 「そんなこと、どうでもいいよ。一緒にやろうよ!」 こうして、それから10年も続いた「オジャマンないと」の顔に、「高原兄」さんはなって行く訳です。 彼とのお付き合いは、今も続いています。 彼の結婚式の仲人を私がして、つい最近私の息子の仲人を「高原」さんにお願いしました。 その渋谷の喫茶店の出会いから、どれだけ一緒に笑い、そして一緒に泣いた思い出が作られたことでしょうか。
さてさて、作家に転向して3年の歳月が流れようとしていました。
仕事内容としては、「お笑い番組」と、「演歌番組」。それに相変わらず「ポルノ映画」の脚本を書き続ける毎日。 「ポルノ」は日活のモノですが、「ピンク映画」と呼ばれるジャンルがありました。 内容的には、ほぼ同じなのですが、今をときめく映画監督の巨匠達は、この頃の「ピンク映画」出身の方が実に多く、芸術性の高い作品も数多くありました。 私は「東活」というピンク映画の社長を紹介され、毎月一本書く約束を。 「日活」に比べて「東活」の脚本を書くのは楽しかったです。 まず、社長からテ-マを告げられて、一ヶ月後に脚本を持って行くと、社長は「面白い!」と、その場で現金を私にくれるのです。 「日活」の企画部に、あれこれ言われることに比べたら雲泥の差。 私は、自分の世界にのめり込んで脚本を書くことが出来て、しかも書き終わると、いきなり現金をいただけるのですから。 社長は、毎月私の脚本を読んだ後、デスクの引き出しから現金を出してくださり、「ご苦労様」と。 そんなことを毎月続けているうちに、私は自分の脚本の世界が、もっと見えて来るようになったのです。 肉体の力で、男と女がいかに変わって行くのか・・・これは非常に奥の深いモノだと感じました。 「東活」の社長には、今でも感謝しております。 さて、TVの仕事の方ですが、おかげさまで東京と大阪を行ったり来たりの忙しい日々になっていました。 新幹線の移動中でも原稿を。 演歌のナレ-ションは、新幹線の中で書くと筆も進みます。 曲をイヤホンで聞きながら、ナレ-ションを書いて行く訳ですが、新幹線から見る風景が、実に演歌にピッタリはまってしまうからです。 そんな時、「名古屋テレビ」さんから、新番組の企画の依頼がありました。 「名古屋で、今までになかった斬新な深夜番組を作りたい」とのこと。 名古屋の方々は、私を大切なお客として、随分接待もしてくださいました。 私は、その接待に甘えて、名古屋に到着すると、「とりあえず、どこで御飯食べますか?」と、毎回名古屋の夜を飲み歩く日々に。 勿論、番組企画の話はするのですが、私は一からスタ-トする番組だったので、夢と希望だらけ。 話する内容は、現実からほど遠いことの夢物語ばかりです。 さすがに、名古屋のプロデュ-サ-も、しびれを切らしたのか、我が家に手紙が届きました。 「連日、打ち合わせと称して飲み歩いてばかりですが、つまり萩原さんのやりたい番組とは、こういう内容なのでしょうか?」 と、私が飲んでは勝手に喋っていたことを見事にまとめた企画書を送って来られたのです。 「失礼なことをしていたな」と、少し反省をしてしまいました。 番組企画書を作成するのは、私の仕事だからです。 こうして、名古屋で私なりの独創的な番組をスタ-トすることとなりました。 「オジャマンないと」という番組です。
思えば、私が中学3年の時、始めて「やすし師匠」に出逢い、高校生の間、送り続けた漫才台本を指導していただいた「やすし師匠」
そんな方の漫才台本を、ついに書かなくてはならない運命となりました。 読売TVの正月特番で、まずはお二人の漫才が7分程度あり、その後コメディでの計90分特番だったと思います。 収録は「旧うめだ花月」です。 コメディの方は、正月特番なので「オ-ル吉本」のキャスト。 こちらは、賑やかにリハ-サルを無事終えました。 演出はディレクタ-がするので、私は台本を書いて、リハに立ち会うだけでOK。 しかし、漫才の方が気がかりでした。 「萩原君、楽屋で『やすきよ師匠』が漫才台本の読み合わせをされるから、行って立ち会って来てよ」と、言われて、私は一人『やすきよ師匠』の楽屋へ。 漫才台本は、事前にお二人に手渡されていて、本番前に簡単な読み合わせだけで、本番突入です。 (正月特番のTV用の漫才なので、師匠達にとっては、その程度で充分だったのでしょう) 私が楽屋に入ると、きよし師匠が待ちかまえていたように、 「さぁ、やすし君、読み合わせしようか。萩原君が書いてくれた台本や」と。 やすし師匠は、まるでソッポを向いたように化粧前の鏡に向かったままでした。 「さぁ、やろうか」と、きよし師匠が言うと、 「こんな奴の書いた台本」と、やすし師匠がポツリと。 私は、何を言われるのかドキドキ状態です。 読み合わせが始まりました。 しっかりと台本を手にして、本息で読み合わせをされる『きよし師匠』に対して、やすし師匠の方は、遠くから台本を見て、斜め読み状態。 「こんな台本で漫才できるか」とでも言いたげな態度でした。 本番が始まりました。 私は、舞台の袖から「どうか無事漫才が終わりますように」と、祈る気持ちで見ていました。 ところが、漫才中にとんでもないハプニングが起こったのです。 なんと、しっかり台本を読み合わせされていた『きよし師匠』が、うっかりセリフを忘れてしまわれたのです。 「どうなるのやら・・・」と、心配していると、やすし師匠がそのセリフを見事にカバ-されて漫才が続行するではありませんか。 楽屋の読み合わせでは、まるでやる気のない素振りだった『やすし師匠』 ですが、実は事前に手渡されていた私の台本を完璧に覚えてくださっていたことに気付きました。 袖で見ていた私は、涙が出そうになりました。 漫才は無事終了。 舞台を下りて来られた『きよし師匠』から、「萩原君、なかなか良かったネタやったな」と、お誉めの言葉を。 やすし師匠に「お疲れ様でした」と、お声をかけたのですが、 師匠は、無言のまま頷くだけで去って行かれました。 結局、この後師匠が亡くなるまで、私は師匠とまともにお話できる機会はありませんでした。 「もっと自分から歩み寄れば良かった」と、今更後悔すらしてしまいます。
デンスケ(携帯用テ-プレコ-ダ-)を片手に、私は「やすし師匠」の楽屋へ。
「宜しくお願いします!」と、私が恐る恐る言うと、 「早うやってしまおう。ハガキ見せ!テ-プをまわせ!」と、やすし師匠。 やすし師匠の人生相談のコ-ナ-は、ハチャメチャでした。 というのも、ほとんど相談して来た人物に怒り出すのです。 「アンタ、こんなこと相談する以前に、自分がしっかりやってないからやろ!」と、相談相手に対して怒りを。 でも、実はこれはディレクタ-と相談した結果の作戦だったのです。 破天荒な「やすし師匠」が、まともに人の相談に乗るのは変です。 「いっそ、毎回相談相手にキレまくるコ-ナ-にしてしまおう」と、私の作ったニセハガキも、あえて怒らせるような内容にしていました。 意図通りに、師匠は怒りまくり、無事録音を終了。 録音を終えると、お約束があるらしく、やすし師匠は楽屋から飛び出して行かれました。 私は、ホッとしました。 「ニセハガキがバレて叱られるかと思いきや、無事バレずに、しかも意図通りの結果になった」と、胸をなで下ろしました。 ハガキは勿論消印のあるのを使い、筆跡もいろんな人に書いてもらっていたので、これが成功だった・・・と、思ったのですが・・・。 よくよく見ると、4通のハガキの文体は、非常によく似ていて、人生相談に至る文章構成も、ほとんど同じだったことに気付きました。。 やすし師匠は、急がれていた様子だったので、そのことに気付かなかったのでしょうか・・・。 後日、私が思ったことですが・・・。 やすし師匠は、この時すでに私が作ったモノを、ニセハガキだとわかっていらしたような気がするのです。 「萩原・・・オマエの演出に、一つ乗ってやるか」 そうして、怒りの自己演出をしてくださっていたのではないか・・・と、思ってしまうのです。 「やすし師匠」は、本質の部分を決して他人に見せない方でした。 結局、そのラジオのコ-ナ-は、半年ほどで無事終えることになりました。 しかし、今度はもっと大変なことになったのです。 私が「やすしきよし」さんの漫才台本を書き、その上、お二人主演のコメディも書かなくてはならないという仕事が舞い込んで来たのです。 思えば姫路の中学生だった私が、やすし師匠と出会い、そして今作家活動を始めている。 漫才の「いろは」を教えてくださった方の台本を書かねばならなくなってしまったのです。
さて、作家として芸能界に戻って来た私ですが、ずっと以前にこのブログで「中学3年の時のやすし師匠との出逢い」を掲載したのを覚えていらっしゃるでしょうか。
その後「やすし師匠」とはどうなったのか・・・気になってる方もいると思います。 作家に転向して暫くして、やすし師匠の元へ、ご挨拶に伺いました。 「やすし師匠、ご無沙汰しております。萩原です。本書き(作家のこと)を始めることになりました」 私は、こうご挨拶すると、やすし師匠は、 「オマエ・・・アカン!」のひと言で終わり。 実は私が姫路で商売をしている頃、やすし師匠を怒らせてしまった出来事があったのです。 それは店を出して間もない頃のことでした。 姫路のスナックで飲んでいると、マスタ-が、 「今日、隣りのキャバレ-に『やすしきよし』が来てるで。オマエ行って呼んで来てくれ」と。 「そんなことできますかいな」と、断ると、 「オマエ『やすしきよし』と知り合いや言うてたのウソやろ」と。 「ウソやないけど、そう簡単に店に顔を出したりしてくれますかいな。第一随分不義理したままやし・・・」 「そんなこと言うて、やっぱりウソなんやろ」 本当にくだらない口論でした。 仕方なく、その店のマスタ-を連れて、キャバレ-の楽屋へ。 ちょうど一回目の舞台が終わったばかりで、着替えをしていらっしゃいました。 思えば、勝手に吉本を辞めて東京に行ってから、何の挨拶もしないまま5年の歳月が流れていました。 さぞや叱られるだろう・・・と、覚悟していたのですが、やすし師匠は私の顔を見るなり、 「よう来てくれたなぁ」と、笑みを。 結局スナックのマスタ-と3人で、近所の寿司屋に行くことになり、二回目の舞台までの間、寿司をご馳走になりながら、久しぶりにお話を。 二回目を終えると、大阪に帰られると思っていたのですが、 「どっか飲みに行こう」と、最終電車がなくなっても姫路ではしご酒を。 深夜の3時頃、タクシ-で大阪に戻られた訳ですが、この時の酒で私は失敗をしてしまったのです。 やすし師匠は、タバコの嫌いな方で、傍でタバコを吸ったりしたら、カンカンに怒られます。 が、酔った私は灰皿を手元に持って来て、タバコを吸おうとしたところ、 「灰皿、向こうにやれ!」と、お叱りを。 この時、私はこう返してしまったのです。 「よろしいですやん。タバコ位」 私は、「この人を怒らせても、もう芸能界の人間じゃないのでいいか」と、この時思ったことは確かです。 すると、やすし師匠は、 「オマエは、アカン!商売やってるか何か知らんが、もう一回オマエは人生で失敗する!」とのお言葉。 それからはマスタ-の方ばかり向いて、こちらを見ようともされませんでした。 そんなことがあって3年後の再会でした。 常に優しかった師匠を、私は怒らせたままでした。 「作家になったけど、やすし師匠と仕事するのは辛いなぁ」 そう思っていた矢先に、ご一緒しなければならない番組がスタ-トしてしまったのです。 TBCラジオの1コ-ナ-で、 「やすしの人生相談」 ハガキで来た悩みに、やすし師匠が人生相談に答えるという内容なのですが、スタジオで録音する訳ではなく、「デンスケ」というオ-プンリ-ルの小型携帯用テ-プレコ-ダ-を、作家の私が一人、師匠の楽屋に行って録音しなければいけないという仕事。 ビビリまくりながら楽屋を訪ねました。 というのも、そのコ-ナ-はスタ-トしたばかりなので、まだ相談のハガキなんか来ていません。 4本撮りをする訳ですが、全て私が作ったニセハガキばかり。 「もしバレたら、どうしよう・・・」 もう絶体絶命、針のむしろ・・・です。 |
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