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萩原芳樹のブログ
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吉本の東京支社長から電話があり、「ひょうきん族」のプロデュ-サ-「横澤」さんが私に逢いたがっているとのこと。

「ようし!チャンス到来」とばかりに勇んでフジテレビへ。
横澤Pと佐藤Dが、私に「お願いがあります」と、パ-ラ-へ。
私は、てっきり「スタッフに加わっていただけませんか」というお話かと思い込んでいました。
ところが・・・。

「実はB&Bの変遷をやろうという企画がありましてね、初代、二代目、三代目のB&Bの漫才を再現しようと考えているのです。ご出演いただけますか?」と。

私を作家としてではなく、元芸人として逢いたかっただけのことでした。
「申し訳ありませんが、もう漫才はできません。お断りします」と、きっぱり断らせていただきました。

「そうですか・・・初代B&Bを再現できないのなら、仕方ないです。この企画はオクラ入りですね」と、横澤さん。
「あのぉ、それよりも僕、作家の仕事を始めようとしているんです。よければ使っていただけないでしょうか」と、売り込みを。

全く私はあつかましい奴です。相手さんの依頼を、あっさり断っておきながら、自分の都合優先なのですから。
「まぁまぁ、あせらずに。そちらはゆっくりと考えておきますから」と。

せっかくのチャンスと思っていたのに、ガッカリでした。
日活映画の方は、その頃クランクインを迎えようとしていました。
しかし、映画の脚本ではなかなか生活していけません。
何しろ、一本の脚本を完成させて、クランクインするまで何ヶ月もかかる上、いただける脚本料はわずかでしたから。

映画の脚本業と、TVの仕事との二足のわらじでやって行こうと、勝手に決めていたのですが、やはり世の中、そう甘くはないと思いました。

でも、それから数ヶ月後、フジテレビの佐藤Dから電話があり、またまたフジテレビへと。
「あなたのこと、ずっと気になっていたんだけど、僕の番組のブレ-ンになってくれませんか?」と。
聞けば「クルミミルクを育てた」という噂が流れていたようです。

「ブレ-ン?」
要するに構成作家の下で、お手伝いをする仕事ですが、私には理解できませんでした。

結局、「笑ってる場合ですよ」といって、今の「笑っていいとも」の前の番組の一曜日のブレ-ンに。

本番の日、アルタスタジオに行く訳ですが、私は何をしていいのやら全くわかりません。
でも、すぐにコントを書かせていただくようになりました。

が、メインの構成作家の方がコント台本をキチンと書かれています。
「私のコント台本の方が面白かった使う」という約束でしたが、なかなかそんなチャンスもなし。
悶々としながら、採用されないコント台本を書き続けていました。

そして、やっとむくわれる日がやって来たのです。


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吉本の東京支社長からの「二つの頼み」は、こういう内容でした。

「まず一つ目やけど、君また漫才やらへんか?今はマンザイブ-ムやし、誰か相方を見つけて来たら、絶対に売れるで」と。

私は丁重にお断りを。
芸人を辞めて、5年の歳月が流れていました。
今更芸人に戻るなんて考えてもみなかったこと。
それに、姫路の暮らしの中で、常に私は「芸人ノリ」やら「芸人オ-ラ」を消そうと努力して来た人間です。

「そうか、仕方ないな。勿体ないチャンスやのに。もう一つの頼みなんやけどな、漫才のことを全くわかってない新人の女の子コンビがいてるのやけど、君面倒見てくれへんか?」と。

その二人は「クルミミルク」という女性コンビで、二人とも歌手に憧れて「スク-ルメイツ」の出身。
ルックスは、歌手を目指していただけのことはあって、そこそこなのですが、笑いの作り方を知らないようでした。

「どうや?君はド素人の洋七君を一人前にした男や。引き受けてくれるか?」と。
「承知しました」
その件に関しては、すんなりOKさせてもらいました。

それからというもの、「クルミミルク」に私は漫才の特訓を開始。
週に二回、二時間の約束で漫才を指導しました。
報酬も吉本さんから、それなりにいただいていたので、私も真剣に指導を。
まるで家庭教師ですよね。

でも、漫才の基本を教えても、なかなか二人は上達しませんでした。
そして、ある日のこと私は二人に、こんな宿題を出しました。

「もう完全コピ-しかないな。オマエ等来週までに大阪に戻って、『こずえみどり』さんの漫才を完全コピ-して来い。ええか、セリフ一言一句そのままで、喋りの抑揚や間も、テ-プに撮って完全コピ-して来るのや」

そして、翌週。
二人は「こずうみどり」さんの完全コピ-漫才を私の前で披露してくれました。
真似ですから、完璧な漫才になっていました。

その日、支社長から「萩原君、クルミミルクの漫才ボチボチ行けそうか?」と。
「いやぁ、まだまだです」と、答えると、
「とりあえず一度見せてくれ」。

二人は事務所で、「こずえみどり」さんの完全コピ-ネタを披露。
事務所は大爆笑となりました。
その頃「こずえみどり」さんは吉本に移籍して間もなく、ブレイク寸前の状態。東京の事務所では誰一人「こずえみどり」さんの漫才を知らなかったのです。

「凄いわ!急に漫才上手になったわね」と、事務所の皆さんは絶賛。
「ようし!早速二人のTV出演を決めよう!」と、支社長は電話を。
「もしもし・・・『クルミミルク』に新ネタが出来て、これが面白いのですわ。一度使ってもらえませんか」

「あのぉ、木村さん・・・今の二人の漫才は『こずえみどり』さんの完全コピ-ですよ」と、申し上げたのですが、
「ええがな。東京では『こずえみどり』誰も知らんから」

こうして、「クルミミルク」は、「こずえみどり」さんの完全コピ-で演芸番組に出演してしまったのでした。

私としては罪の意識でいっぱい。
でも、このことが私を「お笑い作家」として大きく後押ししてくれる結果になりました。


姫路の店を閉めて、一家4人は、ディズニ-ランドのある千葉県浦安市の小さな一軒家を借りて住むことになりました。

市役所に移転届けを出しに行くと、「よくぞ浦安市民になってくださいました」とばかりに、記念品をいただきました。
市民になっただけで記念品をもらえるとは嬉しい話です。
逆に、それだけ人気のない町だったのでしょうか。

引っ越した当時は、まだディズニ-ランドもなく、埋め立て工事の段階。
それから2年経って、ディズニ-ランドがオ-プンする訳ですが、ディズニ-ランド開園の前日「市民招待デ-」があり、浦安市民はオ-プン前日に無料でディズニ-ランドに行くことができたのです。
これまた嬉しい話。

私の家の前には空き地があり、子供達がよく野球をしていました。
そんなある日のこと、子供の打った球が玄関のガラスを直撃して、ガラスが割れてしまうという出来事がありました。

私は留守でいなかったのですが、妻が叱ろうとすると、子供達は逃げ出してしまったとか。
結局、夜になってガラスを割って逃げた子供を両親が連れて来て、子供に謝らせて、すぐにガラスを入れてもらったとか。
(私は留守だったので、詳細は聞いただけです)

聞けば、まだ幼稚園児だというのに、飛距離からして、かなりのバッティング能力だなぁと思っていました。

それから20年程経って、家で野球中継を見ていると、
「阿部さんの子供、よく活躍しているわ」と、妻が。

なんと20年程前に私の家のガラスを割って逃げた子供は、巨人の阿部慎之助だったのです。
阿部慎之助の実家はすぐ近くだったそうです。
「阿部慎之助は凄いバッタ-になる筈だと、私は随分以前から確信していた」と、よく冗談で言うのですが、そんなどうでもいい逸話です。

さて、紳助竜介とサブロ-シロ-の「コケてたまるか」というコント番組でレギュラ-作家として、コントを書く仕事をいただく予定だったので、その制作会社へ。

すると、「番組が打ち切りになったんだ」と、社長。
まだ始まって2ヶ月だった番組なのに、早期打ち切りになってしまったそうです。

私は思わずこう言いました。
「コケてたまるか」なのに、コケてしまいましたね。
「なめてるのか!オマエ!」と、お叱りの言葉。

そして社長が、「今から番組打ち切りに関して吉本興業に謝りに行こうと思っていたところや。オマエ、一緒に行ってくれ」と。

私は吉本さんに不義理をしている人間です。
今更ノコノコと行きたくないと断りましたが、どうしてもと言われて、渋々吉本へ行くことに。

吉本の東京支社長が私を珍しいモノでも見るような顔で歓迎してくださいました。
昔、「3代目B&Bをやらないか」と、声をかけてくださった木村さんです。

私が姫路を引きあげて上京し、作家活動を始めようとしていることを伝えると、
「そうか、君に話が二つあるのやけどな」と。

いったいどんな話なのか、不安と期待でドキドキでした。
「このまま40歳になったら、どうしよう・・・」
10坪の店を続けて行く不安と、「優勝すれば大金が入る」と思って応募した脚本募集。

私は脚本家に転向する決意をしました。
夜、妻が子供を寝かしつけて自分も寝ようとした時、
「俺、商売やめて東京に行こうと思ってる」と。

「東京へ?何するつもり?」
「脚本家になろうと思うてる」
「ええっ?確かにあんたの発想は面白いと思うけど、脚本家になんかなれるの?」
「わからん・・・けど、最低でも、お笑いの本を書いたら喰って行けるやろ」

こうして店をたたんで脚本家として東京でスタ-トする準備を。
「最低でも、お笑いの本・・・」とは、随分生意気ですよね。
今こうして「最低でも・・・」の仕事にありつけているのですから。

東京に行って、以前お世話になった方々を訪ね歩くことに。
渡辺プロの方から、日活のプロデュ-サ-を紹介してもらい、いきなり映画を一本書かせてもらえる話になりました。
(その頃の日活は「ロマンポルノ」)
私はポルノ映画を一度も観たことがなかったので、慌てて観に行くことに。

そして、昔TVのレギュラ-に私を推薦してくれた方のところへ。
脚本の仕事探しのつもりだったのですが、その当時「マンザイブ-ム」のまっただ中で、「脚本よりも、コントを書いてくれないかなぁ」と。
その方は、制作会社の社長になっていて、紳助竜介、サブロ-シロ-をレギュラ-にしたコント番組「コケてたまるか」という番組をスタ-トさせたばかりだったのです。

店を辞めて上京しても、何とかなりそうになって来ました。
しかし、母親には何と言おうかと戸惑っていました。
「父が他界し、母を一人にさせない為に帰郷した自分。今更どう話をしようか」と。

「最近店の経営状態が悪いので、店を一度思い切って閉めて、2~3年東京で商売の勉強して来るわ」と、ガッカリさせない為のウソを。

そして、妻と4歳と1歳の子供を連れて、私はまたまた人生の再スタ-トをすることになったのです。

でも、いざ東京に引っ越してみると、「ええっ?話が違う!」という出来事が起こっていたのです。
昼間は店をやりながら、深夜になってから脚本を書く日々となりました。

夜11時を過ぎて、妻や子供が寝静まってから、隣りの小部屋でコツコツと執筆活動を。

私がまず応募したのは、「ドラマ」という雑誌の「ドラマ脚本コンク-ル」
一時間もののドラマです。
まずは手始めとして、軽いタッチの「ヤクザものコメディ」を書いてみました。

それを脱稿すると、次は「シナリオ」誌で募集していた「テレビシナリオコンク-ル」に応募。
こちらは「たった一人の親衛隊」というタイトルで、売れない芸人を追いかける一人の少女のせつない物語です。

締め切りが終わると、審査結果が雑誌の中で発表になります。
どちらも千通近い作品の中から、一次通過作品の発表。そして、二次予選通過、三次予選通過の発表があり、最後には決勝に残った約8作品の中から、優勝が決まります。
まるで「M-1グランプリ」や「R-1ぐらんぷり」のようですが。

私の脚本はどちらも、予選を無事通過していました。
その頃、私は店の仕入れで東京に行くことが多かったので、思い切って本部の「シナリオ作家協会」に足を運んでみました。
本来は、雑誌が発売されるまでに結果を聞きたかったのですが、そういう訳にも行かず、原稿用紙を買いに行く・・・ということにして。

赤坂の「シナリオ作家協会」で、原稿用紙を買い求めながら、さりげなく聞いてみました。
「今度のシナリオコンク-ル、もう結果は出ましたか?」と。
事務員さんは怪訝な顔をしながら、
「あなたも応募されたのですか?」
「ハイ。萩原と言います」
「ええっ?萩原さん?あなた最終選考に残っていますよ」

そんなことを聞いた私の足どりは、赤坂の町を飛ぶような勢いでした。

結局、2作品とも最終選考には残ったものの、優勝はできませんでした。
でも、大きな自信となりました。
「初めて応募した脚本が2作品とも、最終選考に残るなんて・・・」

そして、私は大きな決断をすることになったのです。
洋服屋をやっていると、「寸法直し」というのがあります。
パンツの裾直しやら、ジャケットの袖丈を内職のオバサンに依頼していました。

ところがある日のこと、いつものように寸法直しの服をオバサンの家まで持って行くと、
「最近は暇やわぁ。私等内職の洋裁で生活している者は、どんどん仕事がほしいのに、最近は随分減ったて皆言うてますねん」と、嘆きの言葉。

「寸法直しの注文を取って来たら、お仲間みんなでやってもらえますか?」
「そらもう喜んで」

そんな訳で、私は店とは別にリフォ-ムの仕事を始めたのです。
その時代、まだ「リフォ-ム」という業種はなく、勿論「リフォ-ム」という言葉もありませんでした。
(ひょっとして、東京辺りでは始まっていたかも知れませんが、姫路ではなかったです)

私は店の裏の事務所の電話番号を「リサイクルウェア-姫路」と名付けて商売を始めることに。

宣伝費をかけたくないので、安いチラシ広告を作り、自分で団地なんかのポストに入れる作業をしました。
(店はその頃、従業員の女の子に任せていました)

暫くすると、予想以上の反響がありました。
「主人が太ってしまって、礼服を買わなアカンと思うてたんやけど、こんなん助かるわ」と、一軒につき、何着もの直し注文があり、細かいながらも着実に収入となりました。

でも、暫くしてその商売も辞めることに。
理由は面倒臭かっただけのこと。
誰か専任の従業員を雇えば済む話でしたが、そんなことをしたら、設けもなくなります。
一人でビラを配って、注文が来た家に上がり込んでは、数万円の仕事。
やはり私は、先輩の言葉のように「地味な商売」が苦手だったのです。

店を女の子に任せて、よく昼間から映画を観ていました。
「シナリオ」「ドラマ」という雑誌があります。
映画シナリオや、TVドラマの脚本が掲載されている雑誌です。
映画好きの私は、一度映画を観た後、その雑誌を買っては、脚本を読むのが楽しみでした。

すると、その雑誌に「シナリオ募集」の告知が。
見れば「優勝賞金1000万円」とか「500万円」とか。

私は「これだ!」と、思いました。
原価は原稿用紙のみ。もし優勝すれば大金が手に入る。

こうして私は、脚本の勉強を始めました。
脚本は中学生の頃から、遊び半分で書いたりしていましたが、シナリオの書き方の基本を教えてくれる東京の学校の通信教育を受けることに。

そして、通信教育を始めてからすぐに最初の作品を書いて応募したのです。


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