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萩原芳樹のブログ
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店を始めてから3年の歳月が流れました。

おかげさまで売り上げは3年間、順調に伸び続けていました。
しかし、3年経ってからの売り上げは横ばい状態に。
周囲に同タイプの店が何軒も新規オ-プンしたのが原因なのか、姫路という小さな町での限界だったのでしょうか。

店で接客しながら、ふと思いました。
「そのスカ-ト、よく似たデザインのがありますけど、こちら一度はいてみますか?」等と若い客に接客している自分・・・。
「果たして何歳まで、こんなことを続けられるのだろうか」と。

このまま40歳を迎えてしまったら・・・。
まだ27歳の私でしたが、将来のことを考えると不安に。

10坪の店は勿論家賃を払っているので、自分の土地ではありません。
私はチェ-ン店展開を考えました。
アパレル業界のテナント出店情報をいろいろ取り寄せては研究を。
神戸の三宮から始まり、京都のテナントビルも視察。
あげくの果ては、姫路のデパ-トが所有している駅前の100坪のスペ-スに、一挙に10店舗を出して「ファッションスペ-ス」を作るプランまで立てました。

商売の先輩に相談をしてみました。
高校のバドミントン部の先輩で、稼業の食堂を継いでおられて、何かと商売のことをアドバイスしていただいていた方です。

私が、チェ-ン店計画や、ファッションスペ-スの話をすると、
「芳樹、オマエそんなことして失敗したら、家族揃って首くくらなアカンようになるぞ」と。
最初の店は、亡くなった父が残してくれたお金で何とか出店できたので、私は無借金。
でも、今度は多額の借金を抱えての「賭け」となります。

「芳樹、商売はバクチやないで。確かにオマエの商売のアイデアは面白いと思う。けどな、商売・・・つまり店を構えるということは『町の時計』やないとアカンのや。毎日同じ時間に店を開けて、同じサ-ビスをして、同じ時間に閉める。これが商売の基本や。商売は地道に辛抱強く続けること。無茶したらアカン」

この言葉は私の骨身にこたえました。
今思えば、その時よくぞ先輩がそんなアドバイスをしてくれたと感謝しています。
この言葉がなければ強行に商売を広げて、おそらく借金に追われる運命になったことでしょう。
私はこの時、すでに結婚していて二人の子供までいたのです。
「家族を犠牲にする訳には行かない」

結局また私は10坪の店で女子高生なんか相手に、
「そのスカ-トはいてみる?」という地味な日々を。

「そうか・・・リスクのない商売を考えればええんや」
私は、何かリスクのない商売はないかと考え続けました。
そして、ある商売を思いつきました。
絶対に損をしない商売です。

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姫路の私の店の前の通りで、年に一度大賑わいになるお祭りがありました。
毎年6月下旬の3日間に行われる「ゆかた祭り」です。

浴衣姿の人が、道いっぱいにあふれる夜のお祭りで、姫路では最大規模のお祭り。
勿論、店を始めて一年目の年、私は祭りの人出での売り上げを見込んでいました。

祭りの一週間ほど前の昼間のことでした。
店の表に出ると、向こうの方から、テキヤの親分達が約50人程、ゾロゾロ歩いて来るのです。
「何だろうな」と、様子を見ていると、
「○○商店さん!」「××商会さん!」と、祭りの日のテキヤの区割りをしていたのです。

一行が私の店の前にやって来ました。
幹事さんのような方が、店内に。
「例年通り、お店の前に出店を出させてほしいのですが」と。

私は断りました。
「すみませんが、ウチも商売する予定なんです」
「少しだけでも無理ですか?」
「そしたら、半分だけならいいでしょう」

そんな訳で、店の表の半分はテキヤの方にお貸しして、私はワゴンセ-ルをすることに。
メ-カ-から委託販売の約束で、大量に「ブラウス」と「Tシャツ」を仕入れて、「オ-ル千円」のワゴンセ-ルを。

祭りの前日、テキヤの皆さんの搬入が始まりました。
トラックに屋台を積んで来て設置する訳ですが、その賑やかなこと。
「ご存じ!鉄板焼きのサンちゃん」等と大きく書かれたトラックが続々とやって来るのです。
私は、何だかワクワクしました。
そして、「ようし!テキヤの皆さんよりも売るぞ!」と、気合いを。

ここでも、私は作戦を。
夜のお祭りで、道路は暗い状態です。
私はワゴンに、とびっきり明るいスポットをつけることにしました。
そして、ワゴンの下には、デカいアンプを仕込んで、音楽をガンガンかけることにしたのです。

「祭りに来る奴らは、虫みたいなもの。明るくで賑やかな方に人は集まる筈」と。

祭りが始まりました。
私の計算は、スバリ当たりました。
周囲の出店より明るい上、私の店のワゴンからは賑やかな音楽が聞こえて来る。
そして、ワゴンに群がった人達は、「焼きそばが500円に比べたら、ブラウス千円買った方が得やで」と。

飛ぶように売れて行きました。
バイトの子には、「お客さんがとぎれたら、向こうに回って、服をたたむように」と、指導してありました。

つまり、通りがかりの人は、店員が服をたたんでいるのではなく、客が服を選んでいるように見えるからです。
「男はつらいよ」で、よく「サクラ」のシ-ンがありますが、それと同じこと。

また次から次ほと売れ続け、一日で百万近い売り上げだったのを記憶しています。
でも、テキヤのお兄さん達は、みんないい人ばかりでした。
わずか3日間でしたが、周囲の出店の人達と私はすっかり仲良しになり、「次は、どこのお祭り?」等と会話を。
祭りが終わると、余ったカステラやら、金魚を沢山私の店に持って来てくれたテキヤの人達。
お祭りが終わって、いつもの日常に戻った時、テキヤの人達のことを思い出したりしてしまいました。

芸人を辞め、すっかり商売人になりきった私・・・。
でも、ある迷いが私を襲い始めてしたのです。

一昨日、テニスの試合があった。

私は2年前から、テニススク-ルに通っている。
きっかけは、ゴルフのドライバ-の飛距離が落ちたので、足腰を鍛える為に始めただけだった。

ところが、ミイラ取りがミイラになった。
テニスの腕前が上達して行くことを感じる度に夢中になる。
そして、「試合に出てみたい」と、野望がメラメラ燃えて来る。

神戸でやっている大会を見つけて応募してみた。
私が申し込んだのは、Bクラスといって、テニス歴5年以下の初級クラスの試合。

6名定員の大会だが、申し込みは4名という寂しさ。
でも、人数が少ない分「総当たりのリ-グ戦」
初めての対外試合。しかも、シングルスである。
3試合も、シングルスで戦う体力があるのか心配だった。

スク-ルのコ-チに相談してみた。
「今度シングルスの試合に出るのですけど、どの位疲れるものですかね?」と。
するとコ-チは、こう答えた。
「初めての試合でしょう?疲れませんよ。疲れる前に、何もできないまま負けますから」

ムカついた。
「絶対に一勝位はしてやろう!」
そして、この一ヶ月テニス三昧の日々であった。

試合当日の朝、古傷の左膝に痛みを感じ始めていた。
練習のやりすぎだ。
でも、ここで引き下がる訳には行かない。

こうして試合のテニス場へと。
56歳で初シングルスに出場する私のことを心配したのか、興味本位なのか、弟子の青木君が応援に来てくれた。

出場者が紹介された。
私の他の3人は、20代~30代。こんな若者達と、真剣勝負をしなければならない。

私の初戦の相手が告げられた。
どう見ても大学生かなと思う「イキリ」の兄ちゃんで、可愛い彼女を連れて来ていた。
「お手やわらかに」そう私が告げて、試合は始まった。

まずは相手サ-ブから。
思ったよりも強烈なサ-ブ。
1ゲ-ム目を私はあっさりと落としてしまった。
「コ-チの言った通りに、このままズルズルと何もできないまま終わってしまうのだろうか」

しかし、次の私のサ-ブで私はあっさりとポイントを奪って、1対1に。
この時私は察した。
「こいつのテニスは荒い。ミスさえ誘えば必ず勝てる」と。

試合は接戦となり、5対5でファイナルゲ-ムを迎えた。
(1セット、タイブレイクなしのル-ル)

相手はムキになっていた。
「こんなオッサンに負けてたまるか!」
可愛い彼女まで連れて来て、みっともない真似はできない・・・そう顔に書いてあった。

ここで私は心理作戦に出た。
「青木、もう疲れたわ。適当に辞めて、早く家に帰ってビ-ル飲みながらしゃぶしゃぶ食べたいわ」と、大声で叫んだ。
相手の顔が引きつるのがわかった。
「なめやがって!」そう顔に書いてあった。
私はニタニタしたままプレ-を再会した。

結局ファイナルは相手がミスを連発して、私は勝利した。
私はニヤリと笑ってこう言った。
「凄いサ-ブをされるのに、もったいなかったですね」と。
奴は可愛い彼女にも無言のままだった。

56歳というのに、私は実に大人げない男である。

でも、この時痛めていた左膝に激痛が走り出し、ファ-ストサ-ブでも、すでにジャンプすらできない状態にまでなっていた。
大会本部に「すみません。膝を故障したので、棄権させてもらえませんか」と、言ったところ、
「困りますよ。次の試合に勝てば優勝もあり得るのですから」と。

もう戦う気力も、体力もなくなっていた。
その試合に1時間もかけていたのである。
56歳のオッサンが、1時間コ-トの中を走りまわるのは、やはりハ-ド過ぎた。

結局、2試合目はあっさりと負けて、今度こそ棄権を認めてもらって帰宅。
やはり56歳で、シングルスの試合に出るのは無謀だった。
しかし、ふとサブロ-さんのことが脳裏に浮かんだ。
私より3歳下の53歳で、今月また百キロマラソンを走ろうとしている。
その素晴らしさを私は改めて実感してしまったのである。

*すみません。本日はテニス試合で勝った私の自慢だけでした。

*次回から、また通常のブログの続編をやります。

秋にオ-プンした私の店は、年末に初めてのバ-ゲンセ-ルの時期を迎えることになりました。

ここで商売人一年生の私としては、「また一工夫を」と、考えました。
今では当たり前となっている「顧客対象のバ-ゲン」(通常のバ-ゲンの前の顧客優先バ-ゲン)ですが、その頃、姫路辺りでやっている店は、まだありませんでした。

まず私は「顧客優先バ-ゲン」の日を設定することにしました。
それは、バ-ゲンの前日に、店のシャッタ-を半分閉めて、一見の客が入ることのできない状況を作って、顧客だけのバ-ゲンセ-ル。

顧客には、あらかじめ聞いていた住所にDMを送り、その顧客限定セ-ルに招待した訳ですが・・・。

ここで私は考えました。
「バ-ゲンはお祭り。賑やかである程、パニックになって購買欲はそそられる筈」と。
自分だけ優先に来たと思いきや、いざ店に来てみると満員の客がいるので、商品を取り合う。そんなパニック劇を演出しなければならないと。

そこで、私の出したDMの内容が、こうでした。
「当日は混雑が予想されますので、あえて時間設定をさせていただきます。あなたの来店時間は、午後3時~5時までです」

実はDMの内容は全て同じ。
つまり、混雑をさける為に時間設定したのではなく、私はあえて混雑を招くようにと、全てのお客さんに同時間設定をしたのです。
全ての顧客を2時間に限定して、店が満杯の状況を作ろうと。

そして、顧客限定のバ-ゲン当日。
シャッタ-を半分閉めた店内に、どんどんお客さんが入って来るではありませんか。
10坪の店は、人が身動きできない程のパニック状態に。
客は、奪い合うように、バ-ゲン商品を手に取っていました。

しかし、ここで私はまた裏の作戦を。
実は客の女性が、一層興奮状態になるようにと、店内の暖房をいつもより高めていたのです。

冬なのに、汗をかく程の店内で、顧客の女性達は、争うように商品をあさっていました。

更に・・・更にです。
従業員の女の子には、「わざと、ゆっくりとレジをしろ」と、言っていました。
レジ前には、当然列ができました。
そして、レジ前には安いアクセサリ-を置いていて「待っている間、ついでに買って帰ろうかな」と思わせるような演出もしていたのです。

結果的に、そのバ-ゲンは大成功でした。
「商売って、単にモノを売ることではなく、人間の心理を掴む作戦なのだ」、まだ23歳の若者は得意げになっていたのです。

「芸人として頂点に立てなかったけど、俺は商売人の頂点に立ってやるぞ!」と、私は意気盛んでした。
いよいよ私の店のオ-プンの日を迎えることになりました。
立地条件の良い店なら、派手にオ-プンセ-ルをするだけで、通りのお客さんは覗いてくれます。

しかし、私の店は繁華街から一歩入った立地。
原宿の裏通りブティックを真似て、表通りに手製の目立つ看板を置きましたが、さすがに原宿と姫路とでは、表通りの人数が違いすぎます。

やはりオ-プン記念に何か目立つことをしないといけないと思いました。
かといって、いきなりバ-ゲンなんかやると、店の品挌が問われてしまいます。
あくまでオ-プン時は、「こんなお店ができましたよ。また覗いてくださいね」的な紹介にしたかったのです。

どこかの店に勤めていて独立されて自分の店を持たれた方は、以前の常連客にDMを出したりするのでしょうが、私は何ぶん初めてのこと。
そんな顧客もありません。

こうなれば宣伝しかありません。
普通、店をオ-プンさせたら、新聞の折り込み広告を入れてみたり、新聞広告をしたりするものですが、それはお金ばかりかかって効果がないことを知っていました。
何しろ、広告代理店に勤めていた訳ですから、それ位はわかります。

私は、バイト君を雇って、駅前でビラを配ることにしました。
ビラといっても、上質の紙でシャレたデザインの、いわば店のパンフレットのようなものです。
でも、街頭で配るのはリスクも大きいです。
それは、見ずにすぐ捨てられてしまうという欠点。

「捨てられない街頭ビラはないものだろうか・・・」
私は、考えました。
そして、こんなビラにしたのです。

それは見開きのパンフの中に、強力なテ-プで貼り付けた5円玉をつけておくこと。
つまり、もらった人が捨てようとした時、現金の5円が貼り付けてあるので、捨てられないで取りあえずは持って行くことになる筈と。

確か数千枚のパンフを作り、全部に5円玉をしっかりと貼り付けました。
それをオ-プン当日、バイト君に駅前で配らせたのです。
パンフ一枚につき、単価も高いので、5円の出費はしれています。
千枚に貼り付けても、わずか5千円の宣伝費ですから。

効果はありました。
どんどんお客さんが店に来てくれるではありませんか!

お昼の休憩時、私一人で近所の喫茶店に入ると、隣りにいたカップルが話をしながら私の店のパンフを手にしていました。
「どうするのかな?」と、様子を見ていると、貼られた5円玉をはがしにかかったのです。
でも、強力テ-プなので、なかなか取れなくて、苦労して5円玉をやっとはがすことに成功していました。
それだけ手間がかかったのですから、当然カップルはパンフを見ながら、何やら話をしていました。

取りあえずオ-プン当日の作戦は、どうやら成功したようでした。
店舗を構えての商売ですから、地道にやって行かなければなりません。
しかし、バ-ゲンの方法が、また勝負となります。

私は、初バ-ゲンでも、独自の工夫をしたのでありました。
広告代理店で商店街の企画担当となり、様々な業種のお店を見ているうちに、「これならできそうだ」という商売がありました。

若者対象の婦人服店です。
姫路には意外と若者対象の婦人服店(その頃は「ブティック」と呼んでいましたが)が少なく、どこも繁盛していました。

といっても私はズブの素人です。早速、業界誌を取り寄せて研究を。
姫路のお店全てをチェックしました。
「商品構成」から「取引先のブランド名」「店の接客態度」等々。

姫路のみならず、神戸、大阪、東京も何日もかけて調査したのです。
全国の婦人服店のオ-ナ-を対象とした「研修会」にも参加。

その結果、資金的に無理なことが二点あることがわかりました。
まずは、駅前の一等地に出店は無理。(当たり前ですが)
そして、有名ブランドを扱うと、ほぼフランチャイズにされてしまうので、「これは儲からない」と、判断。
(フランチャイズの場合、内装にもメ-カ-の指定があるので、随分お金を取られるのです)

「商売は工夫一つだ!」と、勝手に決めて、東京や大阪の店の真似をしようと、またまた調査を。
当時、原宿には「裏通りブティック」というのが大流行りでした。
「どうらく屋」に始まり、「うしろの正面」「たけのこ」等々。
どの店も賑やかな表通りから一歩入った裏通りにあるのですが、どこも常に客が満員状態。
よくよく見ると、表通りにユニ-クな看板を出していて、その看板を見た客が流れて来ているのです。

「これなら姫路でもできそうだ」
私は、駅前の大通りから一歩入った場所で空き物件を探しました。

見つけました。
新しいビルの一階で10坪の広さ。
家賃も安いです。

内装も、裏通りブティックを真似て、金のかからない内装に。
取引メ-カ-に関しては、何日もかけて、東京と大阪を回り交渉を。

仕入れは現金ではなく、後払いになるメ-カ-が多いので、商品が現金で売れた頃に支払い日が来る計算になります。

こうして何とかオ-プンの日を迎えることになりました。
「ここでも何か工夫がいるぞ」と、私が考えた作戦がありました。
それは・・・。


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