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萩原芳樹のブログ
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東京で「コピ-ライタ-」をしていただなんて、とんでもないウソの履歴書で広告代理店に就職してしまった私。

「萩原君は、東京でコピ-ライタ-の経験があるので、みんなは逆に萩原君から、いろいろ教わるように」
社員を全員集めて、部長は得意そうに言っていました。

「どうしようかな・・・いつかバレるな」と、感じてはいたのですが、5分でバレてしまいました。

私を含めた新入社員3人が、全社員集まっている部屋から出たとたん、
一人の社員が「あの人B&Bでテレビに出てた人や。間違いない。漫才辞めて東京に行ってもテレビで歌手とコントやったりしてた」
と、大声で言ってしまったとか。

社員全員には、すでにバレているのに、私はまだバレてないと思っています。
その夜、早速私達の歓迎会が催されました。
そこで私の所属していた課長が、こう言ったのです。
「萩原君、元芸人やから何かやって」と。

「?!・・・」
私は早速経歴詐称がバレたことにドキドキでした。
「採用取り消しかな」とも思ったのですが、そんな様子もなし。

結局その広告会社での私の役目といえば、スポンサ-の接待役。
元芸人がバレた以上仕方ないです。

でも、その頃の私は元芸人のオ-ラを消そうと必死でもありました。
カラオケを歌う時、以前なら客の目を見て大きなアクションで歌うのが普通でしたが、歌詞を見ながらノ-アクションで普通に歌おうと努力していたのです。

広告会社では、「企画」と「営業」の担当となり、商店街の企画担当もすることになりました。
「メガネの三城」が最近でも店頭のメガネフレ-ムのワゴンセ-ルに、
「ワクワク掘り出し市」と明記してやっていますが、あれは私がその頃にネ-ミングしたものです。
それを30年経った今でもやっていたのを見つけて、何やら懐かしいやら、恥ずかしいやらの気分でした。

企画担当なので、それぞれの商売の裏事情もいろいろ聞くことができました。
そして、ある商売のヒントを得た私は、入社して半年も経たないのに広告代理店を退社し、次なる自分の道を選ぶことにしたのです。
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姫路に帰って何を始めるか、大変迷いましたが、とりあえずは何か仕事を見つけなければなりません。

そんな時、新聞の求人広告で、広告代理店が中途採用の社員募集をしているのを見つけました。

「広告代理店ということは、いろんな業種をのぞき見ることができる筈」
とりあえずは応募してみることにしました。

姫路の広告代理店と思って私は小バカにしていたのですが、実は姫路の一番大手の広告代理店で、TVやラジオを始め、新聞も3紙自社枠を持っている程の規模でした。

百人程の応募者が集まっていました。
「ここから何人採用するつもりなんだろうか」と、思いつつ筆記試験と、面接を。

面接には、重役が3人で色んな質問をして来る訳ですが・・・。
私は、笑ってしまいそうになりました。

というのも、「マスコミにどのような興味がありますか?」と、真顔で質問して来るのですが、3人とも、農家の爺さんが背広を着ている風貌。
その風貌と、マスコミという言葉が、余りにも似合わないので、吹き出しそうでした。

そして、こんな質問をして来ました。
「最近のCMや広告で、一番印象的だったのは何ですか?」
私は、すかさず「ここの求人広告でかね」と。
面接官3人は、思わず苦笑いを。
そして、手元で丸印をつけているのが見えました。

こうして無事合格して、いよいよ広告代理店に初出勤。
行ってみると、採用されたのが3人のみ。
面接で、私が「カマシ」のような言葉を発して、3%という競争率に勝てたことが不思議でした。

しかし、私はもう一つ、大きな「カマシ」というか「ウソ」をついていたのです。
それは、履歴書のこと。
元芸人・・・なんて書いたら絶対に受からないと思った私は、東京で芸人生活をやっていた期間、東京の広告会社で「コピ-ライタ-をしていた」という大きなウソをついていたのです。

勿論、その会社名はデタラメで、調べたらすぐにバレるウソです。
悪い男です。
でも、「いつからこんなウソを平気でやるようになったのか」と、ふと振り返ってみたのですが、「ああ」と、納得できました。

B&Bの頃、相方が世渡りの為に実に多くのウソをつくので、「世渡りの為なら、それも有りかな」と、感じていたのも事実です。

結局、私が採用された理由しては、東京で「コピ-ライタ-」の経験があるという点だったのでしょう。

入社式の日。私のことを一番買ってくれていた部長(面接官の一人)が、
「萩原君は、東京でコピ-ライタ-もされていたので、みんなも逆に広告業界のことを教えてもらうように」と。

しかし、このすぐ後に、とんでもない展開が待っていたのです。
芸人を辞めて、いざ姫路に帰ったものの、私は何から始めたらいいのやら戸惑いました。

15歳から、ずっと芸人を目指して、それしか考えてなかった男です。
「これから何をしたらいいのか」

とりあえずは何か手に職をつけること・・・と思って、「インテリアデザイン」の学校に通い始めましたが、姫路にそんな就職口がないことに気付いて断念を。

商売の勉強をしようと「舶来家具店」に就職しました。
が、この店には連日お客さんは来ず。
「姫路で、そんなシャレた商売は無理なんだ」と、納得しました。

大阪~東京の生活に馴れていた私にとって、この小さな町でできることの限界を感じました。

私が帰ってすぐに近所では「秋祭り」があり、姫路でも郊外なので「青年団」なる組織があり、無理やり入れさせられました。
その祭りが終わった夜のこと。
青年団のメンバ-は慰労の意味で集まり、宴会が始まった訳ですが・・。

なんと大のオトナが「ハンカチ落とし」をして喜んでいるのです。
私はアホらし過ぎて参加しませんでした。
すると、団長が「芳樹ちゃん、ハンカチ落としは嫌いなんか?」と。
嫌いや好きの問題じゃないです。
でも、同じ年齢でハンカチ落としに夢中になれる彼等を見て、うらやましくもありました。

これからいったいどうするのか・・・私は、面接用にとス-ツをいきなり5着買いました。
しかし・・・えらいことになってしまったのです。

姫路に帰って、僅か2ヶ月の間に10キロも太ってしまったのです。
せっかく買ったス-ツは、すぐに着ることができなくなりました。
全部ブランドものの高いス-ツだったのに・・・残念。

やるせない気持ちで一杯で、毎日自宅のピアノを弾いては歌を唄っていました。

芸人暮らしを辞めることを決意して、とりあえずスケジュ-ルに入っていた仕事だけを消化することに。

最後の舞台には、芸人仲間の友達が何人かかけつけてくれました。
芸人ラストの舞台。
友人達は、私がどんなネタをやるのか、気になっていたようです。

ステ-ジで私はお客さんに告げました。
「実は、今日これが私の最後の舞台となります。だから、思い切って絶対に言ってはいけない芸能界の裏話をします」と。
友達は「そんな話やめればいいのに」と、心配したそうです。

私は続けました。
「実はここだけの話ですが、歌手の人もオナラをすることがあるのです・・・」と、例の舞台で歌っている間に屁をする歌手を見分ける方法を最後にやりました。

バカですよね。
もう少しネタがあったと思うのに、くだらない屁の話で私の芸能生活は幕を閉じました。

私は、この時23歳。
今後の新しい人生の為にも、過去を引きずらないようにと、写真や記念のパンフレット、ファンレタ-等を全て処分してしまいました。
そして、ステ-ジ衣装も、友達に全部引き取ってもらいました。

もう一度、芸人に戻りたいという気持ちにならないように全てを整理したのです。

でも、姫路に戻り、父の法要をしている間、心の中には大きな穴が開いたままでした。

父が亡くなった翌日の昼前、姫路の実家に到着。

集まっていた親戚や近所の人達は、私に対して冷たい視線でした。
「この親不幸息子が。今頃ノコノコと」全ての目は、そう語っているようでした。

お通夜の段取りに追われながら、「ニッポン放送」に連絡を。
「できれば一本目の収録日を変更してもらえれば」と、勝手なことを思っていたのですが、そうも行きません。
すでにゲスト歌手がブッキングされて、公開録画の場所も確保してあるので、無理なのは当然です。
困った私は、急遽友達のタレントに代演を依頼して、それで勘弁してもらいました。
事務所に所属してなくて、マネ-ジャ-もいなということが、こんなところで大打撃になってしまったのです。

「とりあえずは、葬式を終えてから、次の展開を考えよう」
私は、喪主として父の葬式を無事済ませました。

そして、葬式の夜のことでした。
来てくれた親戚も全員帰り、家には私と母の二人きり。
私は、今後のことを母にどう話しようかと迷っていました。

母は小学校の教員で、現役で働いているので生活は大丈夫です。
でも、寂しくなるのは当たり前のこと。
私は、それでも心を鬼にして「芸人を続けさせてくれ」と言うつもりでした。

言いそびれたまま就寝時間を迎えました。
隣りの布団で母は横になっています。
「今、話をしようかなぁ」と、思って母をのぞき込みました。
すると・・・。

母は、しっかりと目を開けたまま、天井を見つめて涙をボロボロ流していたのです。
お通夜から葬式にかけて、母はいっさい涙を見せませんでした。
そんな母が、深夜布団の上で無言のまま涙を流し続けていたのです。

「お母さん・・・俺、芸能界やめる」
とっさに、その言葉が出てしまいました。
母は、天井を見つめたまま、
「そうか、お父さんの遺言みたいなもんやったからな」と。

このひと言で、私は15歳から憧れた芸人生活にピリオドを打つことになってしまったのです。

翌朝・・・私は昨夜の自分の言葉に後悔はしていませんでした。
「生まれ変わるんや、俺・・・けど、どうやって、何をして生まれ変わったらええのや?」

父はこの世の人ではなくなった。が、私は生きている。
「何かに生まれ変われ」と父は告げている筈。
しかし正直、目の前が真っ暗になってしまったのが事実でした。
父と、新大阪で別れてから一週間経った日のことです。

その日は、銀座の「メイツ」という渡辺プロのお店で、「新人オ-ディション」の日。

私は司会を任されて、沢山のオ-ディション参加者を、さばいていました。
歌のみでなく、キャラクタ-も重視するので、司会の私が素人さんの個性を引き出さないといけません。

そのオ-ディションで、ダントツ光っていたのが「リリ-ズ」
青森県から来た双子というインパクトで、他を圧倒していました。

客席には、渡辺プロの社長を始め、お偉いさんが勢揃い。
そして、私は社長に呼び出されました。
「また何かしくじったかなぁ」と、心配したのですが、
「いいねぇ、君の司会。頑張りなさいよ」と、お誉めの言葉でした。

ニッポン放送のレギュラ-は決まるし、渡辺プロの社長からも、目をかけていただれるようになった・・・。
もう、充実感一杯です。
でも、ふと父の顔を思い出してしまいました。
午後3時過ぎでした。

この日、友達と六本木で飲んで、帰宅したのは深夜の2時。
明後日は、ラジオの一発目。
こみ上げるテンションを押さえて一人寝ようとしていた時でした。

電話が鳴りました。
「こんな深夜に・・・。どうせイタズラ電話だろう」と、出ないで放っておこうと思ったのですが、一応出ることに。

電話の主は、姫路にいる姉でした。
「芳樹か?お父ちゃん死んだんや」
「?・・・何を言うてんねんな。こんな時間に」
「あのな、今日の昼、突然のことやったのやけどな・・・」
電話の向こうで姉は号泣を。

一瞬、悪夢でも見ているのかなぁと思いました。
電話は母に代わり、「今日の3時過ぎ、脳梗塞でお父さん、亡くなったんや」
姉に比べて、母の声は冷静でした。

しかし、私のすぐ返した言葉は、
「それで、葬式はいつ?」
「明後日や」
「明後日て?明後日は都合が悪いなぁ。別の日に代えられへんか?明後日は大事な仕事があるんやけど」
「アホ!何言うてるねん!明日の始発でとにかく帰っておいで」

本当にバカな息子です。
ニッポン放送の仕事の初日と、父の葬式と、どちらが大事かも区別できなかったのですから。

「これって、ホントに現実なんだろうか・・・」
私は、ベッドに座り込んだまま朝を迎えました。

始発の新幹線で、姫路に向かいました。
富士山が綺麗でした。
涙がボロボロ出て来ました。

私が父のことを、ふと思い出した午後3時頃に、父は帰らぬ人になってしまっていたのです。

東京で、やっと掴んだ運命の日が、父の葬式・・・。
何が何やら、心の整理もつきません。

でも、無事父の葬式を済ませて、私はもう一度チャレンジする気持ちで、その時はいっぱいでした。
しかし・・・。


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