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萩原芳樹のブログ
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私の両親は、実に教育熱心でした。
順調に進学、就職をしてエリ-トサラリ-マンになってほしいと願っていたと思います。

しかし、中学3年から、私は漫才に魅了されてアウトロ-の道を。
高校を卒業して、MBSでご厄介になっている時も、父は「学費を出してやるから大学に通いながら、やりなさい」と。

そんな父でしたから、私は「B&B」を結成したことを報告していませんでした。
「いつか漫才やってることがバレるかな」と、思っていたのですが、すぐにバレてしまいました。
近所の人が、わざわざ家に来て「芳樹ちゃん、最近ようテレビに出てますね」と、報告に来てしまったのです。

「ええっ?息子なら大学に通ってますよ。漫才でテレビなんて」
「何を言うてはりますのん。しょっちゅう漫才でテレビに出てはりますやん」と。

そんな訳で、ずっと芸能生活には大反対が続いていたのです。
「ニッポン放送」のレギュラ-が決まって、姫路に帰郷しました。

父は「頼むから、芸能界を辞めてくれ!この通りや!」と、何と私の前で土下座をしたのです。

「嫌や」
私の答えでした。
「まだ、わからんのかい!今が辞める最後の機会なんやぞ!」と、父。
話を聞くと、父はこの年定年で、定年になる前だと、下請け会社に私の就職を斡旋できるとのこと。

話は平行線でした。
翌朝、父の勤務先であった新大阪まで、二人一緒に。
無言のままでした。

そして、新大阪の構内で、お別れを、
私は、何故だか父が去って行く後ろ姿を見届けていました。
父の背中は、泣いているようでした。

これが父との最後の別れになる・・・なんて想像もしてなかったです。
今でも、父が消えていった柱を見ると、その時のことが蘇ります。
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ラジオの「ニッポン放送」から、レギュラ-番組のお話をいただいた訳ですが、それは「横山プリン」さんのおかげでもありました。

「横山プリン」と聞いて、「ああ」と、思い出される方は、かなりの年配だと思います。
「横山プリン」さんは、昭和40年代後半、大阪のラジオを中心に爆発的な人気だった方。

そもそも、「横山ノック」さんのお弟子さんで、立命館大学を卒業して弟子入り。
当時としては、大卒のお弟子さんは珍しかったようです。

そこで、兄弟弟子の「やすし」師匠と「横山やすしたかし」として、コンビを結成されます。
が、「やすし」師匠は学歴コンプレックスの固まりで、大卒のプリンさんとは、上手くやって行けなかったようです。

そして「二代目横山たかし」は、レッツゴ-三匹のリ-ダ-、正児さんとなります。
しかし、このコンビもすぐに解散。

「やすし」師匠は、またまた「プリン」さんと再コンビを結成することになる訳です・・・が、またこれもすぐに解散に。

そんなこんなで、コンビに恵まれなかった「プリン」さんでしたが、OBCラジオから火がついて、関西の若者の人気者になります。

「プリン」さんは、天才肌の芸人さんで、放送作家としても活動されており、プリンさん企画の全国ネット番組も当時ありました。

そんな「プリン」さん。誰よりも早く東京進出をされたのです。
「ニッポン放送」が受けて、「プリン」さん司会の公開ラジオが、私が上京した頃、人気番組になっていました。

大阪で少し付き合いのあった私は、プリンさんを訪ねて行きました。
プリンさんは、「おおっ!オマエ大阪辞めたらしいな。来いや!ディレクタ-紹介したるから」と、すぐに「ニッポン放送」のディレクタ-を紹介してくださったのです。

その内容がまたプリンらしいひと言。
「こいつ、大阪で売れてたのに、東京に出て来よったんですわ。変わった奴ですわ。けど、売れてたという程でもなかったな。チョイ売れくらいやったな」と。

こんな「プリン」さんのおかげで、私は「ニッポン放送」とのパイプが出来、レギュラ-番組のお話にまで発展したのです。

「プリン」さんには、今でも感謝しております。
「横山ノック」先生が亡くなる前、最後に行われた「ノック一門会」でのことでした。

漫画トリオ再結成いうことで、懐かしの漫才を披露されたのですが、「ノック」「フック」と「パンチ」の代わりに「プリン」さんが代役をされていて、往年のネタにプリンさんならではのアドリブで大爆笑でした。

現役を引退されているのにもかかわらず、凄いアドリブ。
私は、感動すらしました。

「プリン」さんは、常に「時代を先読み」しているような方でした。
関西タレントで東京進出第一号です。
今では、普通に東京進出をしている大阪の芸人も、全て「プリン」さんの後追いをしているだけのことなのです。

そんな「プリン」さんの紹介から始まって「ニッポン放送」の、それも「オ-ルレナイトニッポン」のパ-ソナリティにつながるという仕事。

ワクワクしていた私の元に、姫路の実家から電話があり、「話があるから帰って来い」と。

私の両親は、ずっと私が芸人をしていることに大反対でした。
そして、厳粛で厳しい父が私に始めて違う顔を見せたのでした。
上京して2年が経ち、TVのレギュラ-番組からは外されたものの、仕事は順調でした。

司会の仕事にしても、自分の個性を出して納得の行く舞台をつとめられることができるようになりましたし、金銭的にもキャバレ-の仕事を適当にこなして充実の日々。
あとは売れて行くチャンスを待つばかりです。

その頃、ラジオのニッポン放送で、定期的に開催されているロックコンサ-トの司会に抜擢されていました。
ロックコンサ-トの模様は、「オ-ルナイトニッポン」の二部で放送されるので大切な仕事。

「キャロル」は、すでに超ビッグになっていたので、それ以外のバンドが計10組ほど、順に登場するロックコンサ-トです。

トリは「ハリマオ」が、よくつとめてました。
宇崎竜童さんが、「ダウンタウンブキウギバンド」を結成したばかりで、トップ出番。
「チュ-チュ-たこかいな」とか「網走番外地」等をロックでやっては、喋りで笑わせるというグル-プでした。

「つのだひろとスペ-スバンド」が「メリ-ジェ-ン」をやり、「モト冬樹」さんが「ロ-ズマリ-」というGSの「オックス」の流れのグル-プで、ロックではなく、アイドルチックに踊って歌っていました。

このロックコンサ-トの司会で、私はホントに笑い草の失敗をしてしまったことがありました。

ロックコンサ-トの司会は、次のバンドのセッティングに時間がかかるので、この時間をつなぐのが大切な仕事です。
もう「キャロル」の時のように、「滝あきら」さんの漫談をして失敗することもなく、ロックの客に合わせた話題やノリで、無事つないでいました。

次のバンドを紹介したら、約20分程バンドに全て任せて、司会の私はしばし休憩となります。
舞台の袖で、バンドの演奏を聴きながら、終わるのを待っていました。
ところが睡魔が私を襲って来たのです。

ステ-ジでは、ガンガンにロックの音が響いています。
静かなよりも、むしろ眠くなってしまった私・・・。
知らず知らずの間に、すっかり眠ってしまっていました。

「まずい!」と、ふと目が覚めたのは、ステ-ジからロックの音が聞こえていないことに気付いた瞬間。
ステ-ジからは、物音一つ聞こえてきません。

「バンド演奏が終わったんだ!早く出ないと」と、とっにマイクを手に、私はステ-ジに全力で走って出て行きました。
すると・・・。

バンドのメンバ-は、ストップモ-ション状態で、固まっているではありませんか。
「?・・・何だこりゃ?」と、飛び出した私も固まりました。

すると、次の瞬間にバンドは「♪ジャカジャカ」と、演奏を続けたのです。
つまり、バンド演奏の中でブレイクしている瞬間に「出番だ!」と、勘違いしてしまった私。

演奏が再会されると、私はまた全力疾走で舞台から去りました。
客席は大爆笑。
「大阪の司会者は、ブレイクも知らない」と、思ったのでしょう。

こんな失敗もありましたが、「ニッポン放送」の方から、
「団ちゃん、うちで実はあんたの番組を作ろうと考えているんだけどね」と、嬉しいお話が。

とりあえずは、実験的に一本番組を始めて、様子を見て「オ-ルナイトニッポン」のパ-ソナリティも考えてる・・・と。

夢のような話でした。
そして、実験的番組は「あんたのやりたい放題、何でもしていいから」という条件。

そして、この実験的番組の第一回目の収録日が、とんでもない日になってしまうのでした。



私が上京して間もない頃、「ラッキ-7」のマネ-ジャ-さんから連絡があり、「渋谷のNHKまて来てもらえませんか」とのこと。

実はAK(東京NHKのこと)では、毎週漫才の若手が集まって勉強会を開いているらしいのです。
漫才作家さんと、演芸番組のディレクタ-が中心となり、スタジオで新ネタを披露しては、みんなで意見を出し合うという勉強会。

スタジオに招かれると、いました、いました。
当時若手の注目株だった「Wモアモア」さんに「東京丸京平」さん、「大瀬ゆめじうたじ」さん、「大空はるかかなた」さん等、ざっとその数30名ほど。

早速皆さんに「B&Bを辞めて東京に来た団さんです」と紹介され、順に発表して行く新ネタを一緒に拝見することに。

一組の漫才が終わる度に、「あそこはこうした方が良いのでは」と、意見が飛び交います。
私は、皆さんが真面目に漫才に取り組む姿を見て感心しました。

大阪時代、他人から自分の漫才に関してアドバイスされることはありましたが、一部の尊敬していた先輩以外の意見は、右から左へ流していた私。
勿論他人の漫才に対しても、そのコンビの長所や欠点は、自分の中にしまっておいて、いい意味でも悪い意味でも参考にしていました。

ゲストとして呼ばれた私は、各組が終わる毎に意見を求められたのですが、全て「よろしいんじゃないですか」ばかり。
ホントに嫌な奴です。
「こんな奴、連れて来て失敗だった」と、招待してくださった方も後悔されたと思います。

東京の漫才界は、その頃様々な一門で構成されていました。
まず「コロンビアトップライト」一門は、全て屋号は「青空」
「リ-ガル天才秀才」一門の屋号は「高峰」
その他「Wけんじ」さんの「W一門」や「大空一門」等々。

つまり師弟関係がハッキリしているので、それだけ若手の皆さんも漫才に対する姿勢が真面目なのです。

勉強会が終わると、何人かの人に声をかけられました。
「どう?コンビを組みませんか?」と。
全て丁寧にお断りしたのですが、ある方は辛い現状話を訴えられておられました。

「相方がいなくなって何年にもなるけど、毎日壁に向かって一人で自分の書いた漫才を二役で練習ばかりやってるの。もう壁に向かって漫才やる日々から脱出したいんだよ。客前でやりたいんだよ」と。

本当に漫才が好きだったのですね。
一方の私は「売れる為なら、笑いの形は何でもいいや」と、割り切っていた男。
勿論コンビを組んでも上手く行く筈もありません。

「頑張ってください」
渋谷の駅前で別れる時、そう声をかけたのですが、彼はため息をついた後、雑踏に消えて行きました。

昭和40年代後半、「ゴ-ルデンハ-フ」という女性グル-プが存在していたのを、ご存じでしょうか。

「エバ」「マリア」「ルナ」という3人の混血の女性グル-プで「バナナボ-ト」のカバ-で大ヒットもありました。

そのリ-ドボ-カルだった「エバ」ちゃんは、当時のバラエティ番組に引っ張りだこの売れっ子。
今で言うところの「バラエティアイドル」の元祖ですね。

芸能界ズレを全くしていない子で、本当に素直なお嬢さん。
でも、お母さんから「あんたのお父さんは、スペイン人よ」と、教えられているだけで、お父さんの顔も知らずの母子家庭育ち。

一度だけ「どうしても、お父さんに一目会いたい」と、スペインまで行ったようですが、結局お父さんは見つからなかったようです。

お母さんは東北の田舎出身で、「エバ」ちゃんは、お母さんの田舎に帰るのが、何よりもの楽しみだったそうです。

「五郎ちゃん、お母さんの田舎に行って来たけど、朝早くからニワトリが鳴くので、毎日早起きしてしまうの。でも、気持ちいいわぁ」と、スタジオの隅で嬉しそうに話してくれたことを今でも覚えています。

「エバ」ちゃんとは、TVのレギュラ-番組で共演していて、いくら私が頑張ってボケても、「エバ」ちゃんの何気ないひと言には勝てませんでした。

そんな「エバ」ちゃんと共演したレギュラ-番組から、私が外される日のことでした。
「エバ」ちゃんは、何も言わずに涙してくれました。
夜に電話がありました。
「お疲れ様」と、エバちゃん。
「有り難う」と。

本当に純粋な気持ちを持った「エバ」ちゃんでしたが、私が芸能界を去ってから5年後・・・引退して、いっさい消息を絶ってしまったのです。

「エバは、今頃どこでどうしているのかなぁ」と、思っていた時、ある週刊誌に、「エバ」ちゃんの記事が載っていました。

「あの人は今」というシリ-ズで、都内の製本工場で女工さんとして働いていた「エバ」ちゃんを記者は直撃取材しようとしたらしいのです。

その記事によると、「元ゴ-ルデンハ-フのエバらしき女性は、我々が近付くと、工場から逃げるように走り去ってしまった」と。

「何という失礼な取材なんだ!」
私は週刊誌の記事を見て腹が立ちました。

派手な芸能界を引退したからといって、夜のお勤めをしたり、スポンサ-のオジサンの厄介になったりする女性じゃなかった「エバ」ちゃん。
地道に女工さんとして働いているのに「放っておいたれ!」と。

スタ-の道から転落しても、人生をもう一度やり直そうとしている人がいる。
それを世間は何故あざ笑おうとするのでしょうか。

この国は「心の貧しい人」が多すぎるようです。
明日から「全仏オ-プンテニス」が始まる。
深夜にTVに釘付けとなる日々が続くことだろう。

最近、私はテニスに夢中である。
体は勿論使うが、頭も使うので面白い。

試合になると、相手のクセを一早く読み取り、相手の苦手とするコ-スを狙い、思いっきり相手の嫌がるプレ-をする。

テニスは、マラソンやゴルフとは違って、自分のレベルを己自身で知ることはできないスポ-ツ。
なので、強豪相手に勝てて初めて自分のレベルを納得したりしてしまう。

よくよく考えてみると、実に「いやらしい」スポ-ツだと思う。
相手のいない場所に打って、相手の嫌がるプレ-をするのだから。

それでいて、草テニスでは、線審のジャッジはセルフ。
つまり、相手が打った球がコ-トに入ったか、アウトになったかを、こちらで勝手にジャッジしていいのだ。

オンラインぎりぎりの球が飛んで来た時、瞬時に「イン」か「アウト」かを宣言しないといけないのだが、一瞬ためらう。
オンラインぎりぎりの球は「アウト!」と、叫んでしまいたい。

しかし、そこは紳士のスポ-ツである。
ギリギリの場合は、紳士的に「イン!」と、認めてあげる。

こうして互いに戦いながら、相手のボ-ルの判定を、常に「セ-フ」という判定をしてあげることで、試合が終われば握手をする。

まさに「偽善者」そのもののスポ-ツではないか!
相手のいない場所に打ち続けて、相手をトコトン困らせては、ギリギリの球も「セ-フ」と、許してあげて、あげくの果てには握手をする。

勝てば優越感極まりなく、負ければ腹の立つこと、おびただしい。

だからである。ムキになって強くなってやろうと思う。
56歳の今、素直にムキになれることが少ないからなのだろうか・・・。

東京時代に知り合った芸人話、まだまだ続きをやります。


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