萩原芳樹のブログ
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吉本の木村さんと六本木の店で逢いました。
思えば一年余り前、何本ものレギュラ-番組をいただきながら、穴を開けてしまった私は、とんでもない男です。 どんなペナルティが待っているかと思いきや、逢ったとたん木村さんは、 「東京はどうや?」 と、柔らかい表情で。 「何とかやってます」と、答えると、 「どうや?もう一回大阪に帰って来て漫才する気はないか?」と。 「?・・・」いきなりの意外な言葉に、私もビックリです。 「君のしでかしたことなぁ・・・もう時効やで。実はな、二代目B&Bが解散することになったんや。洋一(洋七)はもうええから、君の後釜に来た真一君(今の上方よしおさん)と、コンビを組んで三代目B&Bとして、やってみる気はないか」 せっかくのお言葉でしたが、即座に断らせていただきました。 「あんな形で辞めた以上、もう戻ることはできません」と。 「まぁ、そう言わんと、一度会うだけでもどうや?」と、木村さん。 私は、大阪に帰ってもう一度漫才をする気はなかったのですが、私の後に来た「上方真一」という人物に興味があり、 「会うだけでしたら・・・」と、後日連絡を取る約束をして別れました。 それから数日後のことでした。 友人の「横中バックちゃ(西川のりおさん)」から電話が。 「自分、真ちゃんとコンビ組む気かいな」 「いや、一度会ってみるというだけで」 「実はな、真ちゃんとコンビ組もう思うてるねん、俺」 「バックケ-スは?」 「ウチも終わりやしな」 そして、聞けばコッソリと「バックちゃん」と「真ちゃん」の二人はコンビとしての初舞台を東京で踏むとのこと。 本当に漫才コンビとして、やって行けるのか、テストケ-スとして誰にも内緒で初舞台を踏むとらしいのです。 場所は青山ホ-ル。 さてさて「のりおよしお」さんの初舞台。 いったいどんな舞台だったと思われますか? また続きます。 PR
吉本を勝手に飛び出して、一年余り。
TVのレギュラ-もいただいて、すっかりその気になっていた私でしたが、辞めた吉本さんのことが、ずっと気になっていました。 「蒸発」という、とんでもない方法で、私は吉本を去ってしまっていたのですから。 「いつ吉本に東京での芸能活動がバレて、潰されるのか」と、ハラハラしていました。 思えば、大阪を去る前夜のことでした。 「東京で、新転地の活動をしたい」と思っていた私は、一番の親友と思っていた人物に、深夜にもかかわらず相談に行きました。 当時「横中バック」であった「西川のりお」さんです。 バックちゃんは、私の話を親身になって聞いてくれた末、 「そやけど順ちゃん、変な辞め方したら、吉本から潰されるだけやで」と。 つまり、堂々と辞めて東京に単身行くことは危険極まりないということ。 「いっそ、蒸発でもして芸能界から完全に姿を消すフリをした方が、東京で再スタ-トしやすいのでは」と。 「そやな、わかった。俺明日蒸発するわ!」 こうして、私は本当に劇場やTVの仕事に穴を開けて、東京に行ってしまったのです。 そして、東京に行って一週間後、バックちゃんから電話が。 「自分、あんなこと言うたけど、ホンマにやるとは思わんかったがな。 大阪では偉い騒ぎになってるで。新聞でも、順ちゃんは殺されたのやないかと書かれてたりしてる。ちゃんと吉本と話した方がええで」と。 そして、大阪に戻り、吉本のお偉いさんと話を。 「舞台に穴開けて、オマエどこへ行ってたんや?」 そう聞かれて、 「道後温泉に行ってました」と、ウソを。 「それで、どないするつもりや?」 「これ以上、芸人として続けて行く自信はありません」と。 その頃、私はすでに赤坂の店でショ-タイムをやっていたのですが、自分を守る為の思いっきりのウソでした。 そんな大ウソをついてから一年後。 私が東京で活動していることは、すでに吉本にはバレているとはわかっていました。 そんな時、一本の電話がかかって来ました。 吉本の木村さんという方からでした。 木村さんは、やすきよのマネ-ジャ-であり、我々B&Bを何とか人気者に育てようと、いろいろ売り込んでいただいた恩人のような方でした。 「明日、東京に行くから会って話したいことがあるのやけど」 電話は、約束の時間と場所だけ指定されて切れました。 「ついに来る時が来たか・・・」受話器を置いて、大きなため息を。 芸能界とは、個人の才能と、巨大権力のぶつかり合いの世界。 21歳の若者が、いくらあがいてみても、巨大な力には対抗することはできないのです。 そして、怖々とその約束の場所へと。 ところが、吉本の木村さんの口から出た内容が、私の想像と全く逆のことでした。 また続きます。
「ぎんざNOW」のレギュラ-は、惜しくも逃したものの、「ビッグバラエティ」で、毎週売れっ子の歌手の方々と、コントでからみをして、私は注目されるタレントになっていました。
いくつもの事務所から「ウチに所属しないか?」という、お誘いも受けましたが、何しろ東京に来て最初に所属した事務所がキャバレ-まわりのとんでもない所だったので、決めかねていました。 とりあえずTVの仕事は、六本木のマスタ-でもあるプロデュ-サ-に一任。 そして、渡辺プロからも、同じように歌手の司会の仕事を頼まれる日々。 それに加えて、大手のキャバレ-チェ-ンから話があり、一日5万円というギャラで、直接契約することに。 スケジュ-ルの空いている日は、その大手キャバレ-の仕事を入れました。 21歳にして、月百万を超える月収になっていました。 キャバレ-のショ-にしても、以前のセコイ仕事とは全く違います。 フルオ-ケストラがいて、客も千人余り、それとホステスさんを加えると二千人を前にして、舞台のセリから上がって来るというビッグ待遇でした。 アグネスチャンの専属司会に抜擢され、吉本を辞めて一年足らずで、「うめだコマ劇場」にも、出させていただきました。 しかし、21歳の若者がマネ-ジャ-もいない状態では無理がありました。 TVのレギュラ-番組の仕事と、日劇のアグネスチャンショ-がバッティングしてしまったのです。 渡辺プロで、お世話になっていた方は、 「TVのレギュラ-を一週位休ませてもらえ」と。 それだけ「日劇」に出られるという価値は凄いことだったのです。 でも、TVの方からは、 「日劇を休ませてもらえ」と。 こんな場合、事務所やマネ-ジャ-が整理してくれるものなのですが、当時の私には事務所もマネ-ジャ-もなし。 一人で解決しなければなりませんでした。 私は、お世話になっているTVのプロデュ-サ-と、渡辺プロの方と、二人で話し合っていただく場を作ることにしました。 結果、何とか両方を行ったり来たりしながら、無事スケジュ-ルをこなすことができました。 たった一人で芸能界を生きて行く限界・・・ハッキリ感じていましたが、正直誰を頼りにしたら良いものか・・・わからない状態でもあったのです。 自分では、大人の気分でしたが、今から考えてみれば、まだ21歳の青二才でしかなかったのです。
突然幸運にも、TVのレギュラ-番組が舞い込んで来ました。
それも、当時人気者ばかり集まった歌番組のレギュラ-。 本当にラッキ-でした。 ところが、その制作会社は、当時東京で評判の人気番組だった「ぎんざNOW」の制作も手がけていたのです。 私のことを、たまたまスタジオで見ていた「ぎんざNOW」のディレクタ-から直接お声がかかり、「来週から、レギュラ-で出てよ」と、またまた降って湧いたようなお話。 「ぎんざNOW」という番組は、大阪では放送されてなかったのですが、月曜から金曜まで夕方5時からの生放送で、銀座のスタジオには若いファンが詰めかけての熱狂的番組でした。 関西では、ラジオの「ヤングタウン」がTV化されて「ヤングお-お-」になった訳ですが、その東京バ-ジョンとでも言いましょうか。 文化放送の「ハロ-パ-ティ」という公開ラジオのTV化だったのでしょう。 司会は「せんだみつお」さんがやっていました。 実のところ、私が上京した目的は、東京のTV番組で、それもアイドル番組の司会役を狙っていたのです。 その頃、まだTVの司会といえばアナウンサ-ばかり。 「若いセンスのお笑いタレントが司会をする時代が必ず来る筈!」 そう秘かにチャンスをうかがっていたのですが、私が上京して間もなく、「せんだみつお」という人物が、その座に君臨してしまったのです。 「ああ!やられてしもたわ」 私は自分の狙いが間違っていなかったことを、むしろ誇りに思うことにしました。 しかし、その「ぎんざNOW」に、突然のレギュラ-話です。 有頂天になりました。 銀座のスタジオに入り、せんださんを紹介され、ろくにリハもしないまま、いきなり生本番に突入です。 台本なんてない世界です。 ディレクタ-に、「どうしたら、いいんですか?」と、聞くと、 「適当に、せんだと司会を一緒にやってくれたらいい」と。 まさに、いい加減極まる番組でした。 「ぎんざNOW」は、その後はいろんなバラエティ的なコ-ナ-も始まる訳ですが、その頃はほとんどアイドル歌手が登場して歌うだけの番組。 司会のせんださんが、訳のわからないことを喋ってつなぐ・・・番組でした。 とりあえず私は、せんださんの横に立ってるだけ。 何かふってもらえないかなぁ・・・と、期待していたのですが、全く私を無視。 それもそうです。せんださんにしてみれば、自分の地位をおびやかす奴が横にいる訳ですから、共存なんてあり得ません。 台本もない生放送。 私は、自分のやり場がないまま、時間だけが過ぎて行きました。 「クソ!やったるわい!」 私は、また開き直りの決意を。 当時のビッグアイドル「南沙織」さんが歌っている横で、私は何と踊り始めてしまったのです。 すると、せんださんがピタッと私の横に来て、一緒に踊り始めるではありませんか。 「オマエ、俺より目立とうとしても10年早いぜ・・・」 そう言われているようでした。 結局生放送を終了し、私の感触としては、今一つだったかな・・・という出来。 でも、スタジオに来ていた女子高生から「五郎ちゃ~ん!」と、もうすでに人気者になる気配が。 「五郎ちゃんって、足長いね」と。 実は、その頃「ロンドンブ-ツ」という20センチものヒ-ルの靴を私は履いていて、ベルボトムのジ-ンズの裾で靴のヒ-ルは隠れて、つまり足が20センチも長いように見えていたのです。 (本当は短足体型なのですがね) 「また来週も期待してるよ」と、ディレクタ-から言われて、 「ついにチャンス到来か」と、私は希望で一杯でした。 ところが・・・・。 ところがです。 私を拾ってくれたプロデュ-サ-に、翌日呼び出されたのです。 「オマエ『ぎんざNOW』のレギュラ-が入ったらしいな」 「ハイ!」 「下りろ!」 「ハァ?」 「あのディレクタ-も何を考えてるんだ!さっき叱ったところなんだがな、オマエは俺の番組にしか暫くは出てはいけない!わかったな」と。 こうして、憧れの「ぎんざNOW」レギュラ-はボロボロと崩れてしまいました。 仕方ないです。何もない私を拾ってくれたのは、そのプロデュ-サ-なのですから。 「ぎんざNOW」といえば、松竹養成所にいた頃の「サブロ-シロ-」さんが、アマチュアとして登場し、当時中学生だった「桂雀々」さんに、アマチュアお笑いコンテストで敗退したという伝説の番組でもあるのです。
さて、自称プロデュ-サ-という六本木のマスタ-の言われるままに、私はTVスタジオに向かいました。
そして、約束通りカメラリハ-サルでコントの代演をすることに。 その番組では、湯原昌幸さん、ゴ-ルデンハ-フのエバ、前川清さんが仕切っていて、ゲスト歌手とコントをする訳ですが、ゲスト歌手は多忙なので、本番ギリギリにスタジオ入りとなります。 そこで、カメリハの代役も必要だったのでしょう。 「何でこんなことを、せなアカンねん!」 私はヤケクソ気味に台本を無視して、勝手なアドリブばかりやりました。 湯原さんや、エバは私が何者とも知らずに、私の訳のわからないアドリブに大爆笑。 叱られると思っていました。 しかし、本番を終えると、プロデュ-サ-が、 「明日、ウチの事務所に来てくれないか」と。 30歳位の若さでしたが、六本木のマスタ-は本当にプロデュ-サ-なのでした。 翌日、赤坂にあるその制作会社へ。 プロデュ-サ-が待っていて、いきなりこんな話になりました。 「オマエ、来週からレギュラ-に決まったよ。来週のコント台本もオマエ用に書き換えてもらっているから。いいな」と。 タナボタという言葉がありますが、まさにそうでした。 考えてみれば、六本木で金もないから、ついついやったショ-。 そして、カメリハの代役という屈辱から開き直ったスタジオ。 全てが成功に導いてくれたのでした。 「オマエを何とかレギュラ-にしたいと思って考えたのだけど、誰にも知らせずカメリハでコントの代役やらせて、様子を見てたんだよ。サブにいたスタッフも爆笑になってな。『あいつ、誰なんだろう』と。それで、本番終了後、レギュラ-メンバ-にも打診してみたところ、みんな賛成でな。来週から頑張れよ」 帰り道・・・私は夢でも見てるのではないかと思いました。 単身、東京に出て来て、頼るところもなく、無我夢中の日々。 吉本を勝手に飛び出して、わずか一年余りで、こんな風に偶然のようにTVのレギュラ-が飛び込んで来たのです。 「ビッグバラェティ」その番組は土曜の午後一時からの放送で、今のテレビ朝日系列で流れました。 そして、あの「ぎんざNOW」のレギュラ-話まで、飛び込んで来たのです。
では、東京でどのようにしてTVのレギュラ-番組がいただけたのかについてお話します。
今でもそうですが、普通は所属事務所のマネ-ジャ-が売り込んでくれて、TVの仕事をいたたくというのが当たり前。 でも、その頃の私は所属事務所もなく(キャバレ-まわりの事務所をやめてしまっていたので)マネ-ジャ-なんかいません。 渡辺プロのお仕事はいただいていたのですが、地方の余興や、デパ-トの屋上、遊園地等の営業の司会のみでしたから。 「TVに早く出たいなぁ」正直ずっと思っていました。 しかし、吉本を勝手にやめて単身上京してしまったのです。 「いつかチャンスは来る」と信じて、日々の芸能活動を続けていました。 そんなある日のことです。 同じように司会業をやっている友人と、一緒に飲んでいました。 「次もう一軒行きたいけど、金ないなぁ」 「俺もや」 二人はトボトボ六本木を歩くしかありません。 「そうだ。ツケのきく店があるから、電話して行ってみよう」と、友人は早速電話を。 聞けば、TVの制作会社のプロデュ-サ-が経営している、今でいうラウンジのような店があるとのこと。 ツケで飲めることを確認して、早速その店に行きました。 六本木交差点近くにある「クレオパトラ」という店でした。 マスタ-であるTV制作会社のプロデュ-サ-を早速紹介してもらいました。 「ツケとかじゃなく、金はいらないから、その代わりにショ-やってよ」と。 その店には、生ギタ-の人が一人。 ギタ-一本バックにショ-をするのは、上京してすぐ赤坂の店でやっていたので、馴れたものでした。 得意の「エア-山本リンダ」を、またまたやり、店中大爆笑に。 終わると、そのプロデュ-サ-が、こんなことを言い出したのです。 「君、TVに興味ない?」と。 勿論TVに早く出たいのは当たり前です。 「明日、実は俺のやってる歌番組の本番があるから来てよ」と。 「本番に行って、何をするんですか?」と、私が聞くと、 「リハ-サルで代役をやってほしいんだよね」と、プロデュ-サ-。 「バカにすんな!」と、私は思いました。 何が「TVに興味ある・・や!」リハの代役させる程度しかできないのに、大きな顔するな!・・・と。 よくよく見れば、まだ30歳位の年齢。 おそらくディレクタ-でもない、AD程度の奴なのに、偉そうに言ってるだけと思い、私は「わかりました」と、結局翌日その現場には行きませんでした。 そして、それから一ヶ月後のことです。 また六本木で金がなく、その店に電話をして、また無料で飲ませていただくことに。 店に行くと、自称プロデュ-サ-のマスタ-が待っていて、 「この前、どうして来なかったの?待ってたんだよ」と。 カメリハの代役なんて屈辱なことを・・・とは、思いましたが、二度も誘われては、さすがに断ることもできずに、今度こそ行く約束を。 こうして翌日、TVスタジオに行ったことが急転直下、私の運命を変えてしまいます。 また続きます。 |
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