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萩原芳樹のブログ
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生まれて初めて人前でやった漫才が大爆笑。
それは全てが俊市郎の力であった。
その後、私と俊市郎は、あえて漫才をする機会もないし、「てなもんや」をテ-プで聴いてコピ-することにも飽きて来ていた。

そんな中学一年の3学期末のことだった。
「ヨンちゃん(私のこと)俺、大阪に引っ越すことになったんや」と、俊市郎から突然告げられた。
お父さんの仕事の都合で、大阪に引っ越すことになったらしい。

「そうか・・・。寂しなるなぁ」
正直なところ私には大きな衝撃であった。
というのも、元々私は、その学校では「よそもの扱い」されていた人物であって、俊市郎こそ初めての仲の良い友達であったからであった。

小学校3年の時、私の一家は姫路の街中から郊外に転校して来た。
それも母と同時転校。
どういう意味かというと、母は小学校の先生で、私の転校と同時に同じ小学校の教員となった訳である。

転校したばかりの朝礼で、母は新任教師として、朝礼台に呼ばれて全校生徒の前で紹介される。
その時、「先生の息子さんも一緒に来られたので紹介しておきます」
と、校長に呼ばれて、私までもが朝礼台に立たされて挨拶させられたという信じられない展開。

勿論、全校の生徒は私のことを特別視するのは当たり前のこと。
転校してから私のことを誰もが「先生の子」と呼んでしまうようになっ
た。

イジメにあった。
「町の子やからなぁ」
普通、田舎から町に出て来ていじめられることは想像がつくが、全く反対のイジメだった。
親に買ってもらった新しい服を着て学校に行くと、みんなから冷ややかな目で見られる・
何よりも、担任の先生のイジメがひどかった。
「萩原君は、町の子やから、みんなと違う」と、悪い意味で軽蔑すらしていた。

学校に行くのが嫌になった。
よく風邪をひいて寝込んだものだった。
何故、先生までが私のことをイジめるのか・・・。
母に、ぶっちゃけ話をしたところ、どうやら先生仲間でも母の存在は特別のようであったらしい。
というのは、街中の教育になれていた母にとっては閉鎖的な田舎の教育が遅れていることを、職員会議でも問題にしていたらしい。
「何が街中の教師じゃ」とばかりに、田舎の先生にとってはウザイ存在。
そんな担任先生のウサが私に来ていたという訳である。

まぁ、そんな話はどうでもいいが、転校してなかなか友達もできなかった私にとって、俊市郎の存在は大きかった。
頼みのキャンドルが消えてしまうような気がした。

そして、中学2年。
俊市郎はいなくなった。
私は、毎日がつまらなくなってしまっていた。
「今頃、俊市郎は大阪の大都会の中で、こんな田舎とは違って楽しくやっているのだろうな」

そう勝手に思っていたのだったが、実は全く違っていた。
あの「イケメン」「オモロイ奴」「運動神経抜群」の俊市郎が、なんと登校拒否になってしまったというのであった。

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俊市郎と私とで、初めての漫才を突然することになった。

中学一年の夏休み、一年全員でキャンプがあり、その夜のことだった。
食事の後、先生が「誰か何か芸をやれよ」と。
全員シ-ンとなる。
その時である。
「俊市郎君とヨンちゃん(私)は漫才やってる」と、誰かが大声で。
拍手が起こった。

「どうする?」
私が言うと、俊市郎は尻込みをしていた。
「面白そうやな、やってくれよ」と、先生。
また拍手が起こる。

「しゃあないな、やるか」と、私が腰を上げようとしたが、俊市郎はまだ尻込みをしていた。
「先週の『てなもんや』を二人で再現するだけでええやないか」
そう私が言うと、
「それは嫌や」と。
「どうする?この状況では引っ込みつかんで」と、私が無理矢理引っ張り出そうとすると、俊市郎が何やら考えごとをしているかのようだった。

「わかった。やろうか」
やっと俊市郎が重い腰を上げた。
二人して宴会場の舞台に上がる。
とりあえず私が「僕らTVの真似事してただけで、漫才なんかしたことないんです。ネタなんか当然ないし・・・。なぁ、君も何か言えよ」
そう話を始めると、俊市郎が突然「プ-」と一言。

場内、まずは大爆笑。
「何がプ-やねんな」と、私が応えると、また俊市郎の口からは
「プ-!」
「プ-プ-ばっかりでは意味わからんわ」
「そうか?実はオナラだけで会話をしている国があるんですよ」
「どこやそこ?」
「へ~こく帝国いう国なんですけどね」
俊市郎の口からは、屁で会話する国の様子がどんどん出て来る。
彼は単なる思いつきで喋っているのか、それとも以前から暖めていたネタなのか、とにかく彼が一言喋る度に大爆笑となる。

特に女生徒は大爆笑だった。
というのも、イケメンの彼は普段からモテモテ。
そんな憧れのイケメンが屁のネタを始めたので皆ビックリしたと思う。
ちょうどスマップがコントをするようなものだ。

私はついて行くのに必死であった。
そんなアドリブ漫才が30分程続き、爆笑と拍手の嵐の中、二人は舞台から下りた。

生まれて初めての漫才体験は、相方のアドリブボケに、ただただついて行くだけのツッコミ役で終わったのであった。
さてさて、バレ-ボ-ル部の練習をサボって、俊市郎宅へ。
買ってもらったばかりというテ-プレコ-ダ-を、早速見せてもらった。
その頃のは「オ-プンリ-ル」という古い形。
「こんなモノに、自分の声が録音できるのか」と、私は改めて感動した。

「昨日の『てなもんや三度笠』を録音したのやけど、聴いてみる?」と、俊市郎。
「聴く聴く」
二人して、昨日TVで放送されたばかりの「てなもんや三度笠」を聴くことに。

「てなもんや三度笠」は、日曜6時からの30分番組で、藤田まことさん主演の時代劇コメディ。
当時、爆発的な人気番組で、特にゲストコメディアンのボケに対する藤田まことさんのアドリブ的ツッコミが素晴らしかった。

「オモロイなぁ」
私と俊市郎は、昨夜見た番組を改めてテ-プで聴いて爆笑。
「もう一回聴いてみようか」

結局、その日何度同じテ-プを聴いたのかわからない。

そして、翌日の昼休みのことだった。
俊市郎が、私の傍に来て、昨日テ-プで聴いた「てなもんや」のセリフを語りかけて来るのである。
私も、覚えていたので、返しをする。
二人でやりとりするうちに、30分番組全てのセリフを二人で覚えてしまっていたことに気付いた。
周囲には、クラスメイトが集まって来て、そんな二人のやりとりを聞いて爆笑の渦となった。

それからというもの、毎週月曜日はクラブを休んで「てなもんや」のテ-プを二人して聴くようになっていた。
そして、また翌日には学校で、そっくりセリフのやりとりを繰り返す。

中学一年生の二人が遊びでやっていたことだったのだが、よくよく考えてみればプロの完全コピ-をしていたのであった。

いつの間にか、私と俊市郎は日常会話でも、漫才コンビのように変化していた。
以前に、このブログでも書いたことがあるが、鶴橋の二畳の部屋を出て、玉出を選んだのは、中学時代からの親友的存在だった「俊市郎」という友人の家があったからであった。

彼と私は、中学一年の時、同じクラスで仲良くなり、その頃初めて漫才の真似事みたいなことをやり、大の仲良しであった。
私が今こんな仕事をしているのも、かつて芸人をやっていたのも、全てが彼の影響と言ってもいいと思う。

さてさて「俊市郎」という友人について、これから暫くのシリ-ズで綴って行くことにしましょう。

中学一年で同じクラスになった彼は、女の子には憧れの存在であった。
何しろイケメンであるし、勉強の成績もそこそこ良し。
その上、運動神経が凄くよくて、バク転なんかも道を歩きがてらに平気でやってしまうような男だった。

そんな彼と、同じバレ-ボ-ル部に入ったのも何かの縁。
勿論運動神経の優れた彼は、いきなり一年の中でもダントツ上手だった。
しかし、一年坊主といえばバレ-コ-トの外で日暮れまで玉拾いをさせられるのが当然の役目。

先輩達がコ-ト内で練習している間、玉拾いをしていた私のすぐ傍に来て、彼は常にブツブツ呟いていた。
その内容といえば、コ-トにいる先輩の「あだ名」を勝手につけてみたり、小声で流行の歌に自らの替え歌をして聞かせてくれたり・・・。

それが全て爆笑ネタだったので、自然と玉拾いの一年生は彼の傍に集まり、やがて大爆笑の輪になってしまう。

「オマエ等、そこで何してのんや!」
当然、先輩にドヤされて一年全員ウサギ跳びで運動場一周となる。

そんなある日のこと。
「ヨンちゃん(私の呼び名)今日、クラブさぼって家に来いひんか?」と。
聞けば、テ-プレコ-ダ-を親に買ってもらって、面白いモノを録音したというのである。
「行く行く」
私は、即返事を。
というのも、テ-プレコ-ダ-は、その頃の中学生にとっては憧れの「ほしいモノ、ベストワン」

授業を終えると、学校のすぐ傍にあった彼の家に、転がり込むように駆けつけた。
そして、彼がそのテ-プレコ-ダ-に録音していたモノに、私は感動した。
そして、そして、そして・・・。このテ-プレコ-ダ-こそ、芸人に、漫才の道に進ませてくれたのであったのである。

私の大好きだった芸人さん。
続いては「浅草四郎」という芸人さんについてです。

昭和30年代~40年代にかけて活躍されていた方でした。
元々喜劇役者であり、その後漫才に転向。
「姿三平・浅草四郎」として人気を呼びます。
私も、このコンビは見たことがないのですが、伝説に残る漫才コンビだったようです。

その後、「岡八郎」さんと、「四郎・八郎」のコンビを結成。
吉本が派手に売り出した若手コンビでした。

浅草四郎さんの芸は、コメディアン出身なだけあって、動きが達者。
その上、喋くりも達者だったので「四郎・八郎」の漫才は、ほとんど浅草四郎さんがネタをふって落としていた記憶があります。

日曜12時にMBSで「サモンお笑い劇場」という番組がありました。
吉本新喜劇を生で放送するのですが、オ-プニングは必ず「四郎・八郎」の漫才から。

しかし、ある日突然ブラウン管から「四郎・八郎」の姿が消えてしまいます。
後釜には、当時新人の「やすしきよし」のお二人が。
「どうされたのかなぁ」と、気になっていましたが、岡八郎さんは新喜劇に入団されたことをTVで知りました。
「では、浅草四郎さんは?」

そんなある日、TVの寄席中継で、浅草四郎さんの姿を拝見できました。
吉本を辞められて、千日劇場に移籍し、「浅草四郎・杉一平」という新コンビを組まれていたのです。
私の好きな浅草四郎さんの独特な動きと喋くりは健在でした。

しかし・・・。
それを最後に浅草四郎さんの姿を拝見することはできなくなってしまったのです。
40歳という若さでこの世の人ではなくなわれてしまわれたのです。

一度でいいから生で、それも近くで浅草四郎さんの芸を見たかった・・。
今でも、残念で仕方ないです。

浅草四郎さんは、楽屋でも面白い方だったらしく、私が花月の舞台を踏むようになっても、楽屋では浅草四郎伝説が持ちきりでした。

子供の頃、TVを観て憧れの存在だった方とは、ほとんどお目にかかれたのですが、浅草四郎さんだけはついに幻の存在で終わりました。
昭和30年代~40年代にかけて活躍された芸人さんで、「白川珍児」という芸人さんがいらっしゃいました。

私が小学生の頃、TVを見ていると、「千日劇場」のTV中継によく出られていて、美人の奥さん「美山なおみ」さんとの漫才もさることながら、「唄子啓介劇団」のコメディにも、よく出演されていて、むしろコメディの方が、持ち前の芸を発揮されていたような気がします。

どんな芸の持ち主の方かと申しますと、とにかく動き芸が凄かったです。
パントマイムも、おそろく経験されていたのでしょうか、そんな動き芸に加えて、口で色々な擬音を発せられるのです。
今の「オ-ル阪神」さんの擬音芸プラス、パントマイムがあると想像してください。

例えば、「山の空気は美味しいなぁ」というセリフの時でも、山の空気の中から、何やら掴み取る仕草を。
「何をしてるねん?」と、聞かれると、
「中のアンコだけ食べてたんや」

正直余り売れてない方でしたが、小学生の頃大好きで、そんな動き芸の真似をよくしたものでした。
後に「千日劇場」から、吉本に移籍されて、花月で同席させていただいたことがありました。

私にとっては憧れの存在。
声すらかけることもできませんでした。
でも、その頃の「白川珍児」さんはグダグダで、常に楽屋でマ-ジャンばかり。
出番になっても、「今、ええとこやから、オマエ一人で舞台をつとめてくれ」と、奥さん一人を舞台に立たせてはマ-ジャンを続けるような方でした。

子供の頃の憧れの芸人さんが、そんな姿になってしまったことを残念でたまりませんでした。
「絶対に売れる人や!」と、子供心に期待していたのですから・・・。


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