萩原芳樹のブログ
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3月京橋花月公演「お茶子のブル-ス」の脚本、順調に進み、まもなく脱稿です。
昭和44年の寄席楽屋のお話で、書いて行くうちに登場する芸人さんの吐息が私に伝わって来て、何とも言えない気持ちです。 さて、昭和の芸人さんのお話、次なるお人ですが、「横山やすし」さんのことを書こうとしてたら、何故かパソコンが固まるという状態が続いてしまいました。 天国から「萩原!オマエ変なこと書いたら承知せんぞ!」と、怒ってはるのかも知れません。 でも、私が思うところの「昭和の一番代表的上方芸人さん」なので書かせてもらいます。 ウキペディアでは、誰が書き込んだのか、私が横山やすしさんの弟子・・・ということになっておりますが、あれは間違いで、私は弟子ではありません。 でも、色々と本当にお世話になった大好きな方であります。 私が初めてやすし師匠に出会ったのは、昭和42年の夏でした。 (古すぎてようわからんがな・・・と言わずに聞いてやってください) 当時、私は姫路の中学3年生。 普通の田舎の中学生でした。 その日、全国一斉共通模擬試験があって、私は姫路の街中まで出ることになりました。 高校受験を控えた夏・・・両親は勉強に厳しく、「試験終わったらすぐに帰って来いよ」と、言われて本当はすぐ帰宅しなければならないところでした。 「受験勉強のどこがオモロイねん!それより漫才の方がずっとオモロイわ」 当時中3の私のホンネでした。 「大阪の人はええな。花月があるから」 姫路の田舎には寄席なんかありません・・・ところがその一ヶ月前に「有楽座」という小さな寄席小屋が姫路にオ-プンしていたのです。 そこに、当時コンビ結成間もない「やすしきよし」が出演していることを新聞で知りました。 「会ってみたいなぁ」 アホなお笑いファンなら誰でも考えること。 でも、両親は余分な金を持たせると遊ぶから・・・と、バス賃しかくれません。 「何とかタダで寄席見たい」 「何か方法はないもんやろか」 勉強どころか、そんな思いで一杯になり、私が考えた作戦がこうでした。 まず漫才台本を書いて「見てください」と、持って行く。 まだ売れてない新人漫才師なので、調子に乗って見てくれて・・・ そのあげくに「勉強の為に見て行くか?」 と、無料で寄席を見ることができる・・・こんな作戦。 今では到底不可能なアホな田舎の中学生の作戦でしたが、これが見事に作戦成功となったのです! その日、模擬試験を終えた私は、漫才台本片手に姫路の寄席小屋へと向かいました。 テケツ(表の切符売り場)のオバサンは、「やすしきよしさんに会いに来ました」と、言うだけですんなり楽屋に入れてくれました。 まず、ここで必ず断られると覚悟していたのですが・・・ 姫路の中学生は、まず第一関門がすんなり通過できて、逆に緊張しまくりです。 楽屋に行きました。 そこには、西川きよしさんの姿は何故かなく、ランニングシャツにパンツ姿のやすし師匠が、ク-ラ-もない楽屋で熱そうにウチワで激しくあおいではりました。 「すみません!僕・・・姫路の中学生ですけど・・・漫才台本を書いて持って来ました。良かったら見ていただけないでしょうか?」 勇気を出して、私がやすし師匠に生まれて初めて発した言葉でした。 やすし師匠は、眼鏡をズリ上げながら、 「ええ?君、姫路の中学生?漫才台本て?・・・お茶行こ!」 「?・・・」 田舎の中学生には、「お茶行こ」の意味すら理解できませんでした。 「下の喫茶店で待っとれ!ワシはすぐ行くから」 お茶・・・すなわち喫茶店とやっと理解はできたのですが、すでに両足はガチガチ状態になっていました。 恐る恐る喫茶店の奥に座っていた私を見つけて、やすし師匠は開口一番こう怒りはりました。 「そっちは上座や!オマエはそっちに座れ!」 姫路の中学生には何のことだか、またまた理解できません。 でもこの後、やすし師匠が優しく姫路の中学生に、漫才台本を見てアドバイスしてくださったことが今の私の人生の始まりでもあり、大きな支えにもなっているのです。 どんなアドバイスをしてくださったのか・・・また次にお話しましょう。 PR |
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