萩原芳樹のブログ
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「俺の横山を名乗るか?横山エンタツ、横山ノックと、大きな屋号やぞ」
一瞬グラッと来ましたが、丁寧に私なりの言葉で、せっかくのご好意なのにお断りさせてもらいました。 というのも、やすし師匠にガッチリ弟子となってついて行くだけの自信がなかったからなのです。 やすし師匠には、お弟子さんに対する厳しい伝説がいろいろあります。 伝説その①「ハンガ-タケコブタ-事件」 これは、やすし師匠が楽屋で弟子に怒り、思わず手にしていたハンガ-で弟子の頭を叩いたところ、運悪くハンガ-のハリガネの部分が弟子の頭を直撃。 なんと弟子の頭にハンガ-のハリガネが刺さり、ハンガ-は頭の上でグルグルまわっていたそうです。 伝説その②「高速道路バックオ-ライ事件」 やすし師匠は、急いでいる時、弟子運転の車を赤信号でも「行かんかい、ボケ!」と怒る人でした。 そして、高速道路で降り口を間違って通り過ぎてしまった運転の弟子に「バックせんかい!」と、高速道路をバックさせたお人です。 私はそんなはめになる予感がしたのか・・・「この人の弟子になったら殺される」・・・そんな恐怖感もあって、弟子入りをお断りしてしまったのです。 結局私は「団順一」という芸名でデビュ-。当時では珍しい師匠ナシの新人漫才師です。 一度だけ、「やすしきよし」さんの一つ前で舞台を踏む機会がありました。 「やすきよ師匠の前の出番やから、気合い入れて行こうな」 私と相方は「絶対爆笑を取って、後のやすきよ師匠がやりにくくなる位にしてやろうと意気盛んに舞台に出ました。 その頃、我々B&Bは、笑いを取る為には手段を選ばす、相方のズボンのお尻をすぐ破れるよううに仮縫い状態にしておいて、舞台で私が相方を「股サキ」すると、相方のスボンの尻が破れるという、まさにプロレスまがいのインチキ技を隠し技としておりました。 そのインチキ技をやりました。爆笑になりました。 舞台から下りて来ると、きよし師匠の顔は厳しく、「あんなことやられたら、次やってられへんやないかい!」と、お叱りの言葉。 でも、やすし師匠は舞台の袖で拍手をしてくださいました。 「萩原!やるやないかい!」と。 そして、相方にアドバイスを。 「島田!転んだら、早う起きんかい!それが若手の漫才や」と。 つまり、こういうことです。漫才師やコメディアンはコケることこそ芸と思っているが、転んだ後、イチ早く起きることこそ、シャ-プな動きができる若手ならではの技・・・という意味。 まさに、素晴らしいアドバイスであり、「やっぱりやすし師匠は天才やなぁ」と、感じてしまいました。 今思えば、初めて出会った時のように、もっともっと自分から近付いて、やすし師匠にいろんなアドバイスをしてもらえば良かったと後悔しています。 結局私は、わずか一年で吉本をやめて東京に行くことにしました。 今のように大阪の芸人を受け入れてくれる土壌ではないことを充分知りつつ、私は東京で一勝負してみる道を選んだのです。 でも、やめ方が無責任すぎました。私は「蒸発」という手段で、いくつものレギュラ-番組に穴を開けて、上京してしまったのです。 勿論、当時の新聞ネタとなり、「殺されたのではないか」などと騒がれたりしましたが・・・。 そんな時、やすし師匠は、私の実家に電話してくださっていたのです。 「あいつはアカンタレやから、仕事にトチッて出て来れんようになって、どっかに隠れてるのに決まってる。お父さん、あいつの居所がわかったら、すぐに知らせてください。ワシが吉本に話して復帰できるようにしたりますから」 後に父親から聞かされた話ですが・・・。 やすし師匠のことを語れば、もっともっとキリがなくなりますので、この辺にしておきます。 「花と咲くか、月と欠けるか・・・それが花月」と聞いております。 花と咲く時は蝶よ花よともてはやされますが、月と欠ければ誰も見向きもしてくれない・・・。 厳しいですが、それが芸人さんの世界なのでしょう。 やすし師匠は、晩年つらい思いも沢山されたと思いますが、それは自ら選んだ「本物の芸人の道」であったのかもわかりません。 亡くなって13回忌を迎えました。 いつまでも心に残っているお人であります。 昭和の芸人さんは、ホントに奥深いです。 3月京橋花月の「お茶子のブル-ス」・・・そんなエッセンスをたっぷり含んでお届けしたいと思っております。 PR |
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