萩原芳樹のブログ
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少し遅くなりましたが、「新年あけましておめでとうございます」
昨日は我事務所の新年会であった。 毎年、弟子連中が「お年賀」を持って新年の挨拶に来てくれる。 今年は、弟子達に加えて、芝居のメンバ-である「めぐまりこ」「コッコ」「隼ポリン」さんも来てくれて賑やかな新年会となった。 みんなで昨年の「女忍のブル-ス」「お茶子のブル-ス」のDVDを観て反省会。 おかしな話。新年早々に昨年の芝居の反省会をしているのだ。 でも、今年の六月にまたチャレンジする新たな芝居に取り組む為の反省会であるから、前向きと言えよう。 今年は昨年以上に不景気になるのでは・・・と予測されている年である。 そんな新年に、芝居の話をみんなでできるのは最高の新年会でもあった。 私の一座は全員、本当に元気である。 誠にバイタリティにあふれている皆さんだ。 正月から元気をもらった。 そんな中でも一番元気だったのは、私の孫の二歳になったばかりの「衣音」ちゃんであった。 二歳児にとっては未来しかない。 元気であるのも当然のこと。 しかし・・・我々大人はそんな子供に明るい未来を約束できる自信が果たしてあるのだろうか。 この国は狂っている。 というか、怠慢が当然のようになってしまった風潮の国。 新年を迎えて、私は新たなチャレンジをしたいと思った。 しかし、長年の経験から、それはかなり「イバラの道」であると覚悟もした。 「この国の『笑いの文化』を、ヤケクソでも変えてしまってやろうかと思っている」 でも、私は小さな人間だ。 けども・・・やってみたいなぁ。 PR
私が芸人を辞めて、姫路で婦人服の店を経営していた頃のことであった。
突然、俊市郎の弟さんが私の店を訪ねて来た。 私が店を始めたというので暇ついでに寄ってくれたらしい。 弟さんとも勿論昔からの知り合いである。 「兄貴は相変わらずサラリ-マンやってるのかいな」 私が世間話程度に、俊市郎の様子を聞いてみた。 ところがある。 「兄貴は、最近になってやっと会社勤めをするようになったんですわ」 「最近になってて?」 「芳樹さん、何も知らんかったんですか?兄貴はね、最近まで芸人やってたんですよ」 「ええっ?」 弟さんの余りにもの衝撃の言葉に私は固まってしまった。 「芸人やってたて?」 「芳樹さんがB&B辞めて、東京に行かれたすぐ後の頃でしたけどね」 弟さんが話を聞かせてくれた内容とは、こうだった。 私が「ダッシュとんぺ-」「B&B」時代には、自分は全く芸能界に興味のない素振りをしていた俊市郎。 しかし、私が上京した頃、彼はサラリ-マンを突然辞めて芸人になったというのだ。 聞けば、大阪のショ-パブのような店で、司会をしたりしていたらしい。 そして、私が芸人を辞める少し前に彼も辞めて、またサラリ-マンになったというのだ。 中学一年の時、初めて漫才をした二人だった。 私にプロのコピ-を自然と伝授してくれた奴だった。 なんば花月に初めて行ったのも二人。 俊市郎は、密かに私と漫才コンビを組みたいと思っていたのかも知れない。 本当に俊市郎という男は、シャイな奴だ。 「一言、私に自分の思いを告げてくれれば良かったのに・・・」 そうは思ったが、もう遅かった。 今でも時々ふと思うことがある。 俊市郎が、自分の気持ちをぶつけてくれてコンビを組めば、今作家をしている私だが、今も漫才を続けていたかも知れない・・・と。
高校に進学してからは、以前このブログでも書いたが、横山やすし師匠にバドミントンの試合の結果と、漫才台本を送ることになる。
そして、高校2年の時、相方を見つけて「ヤングタウン」や「ヤングお-お-」に出演して、アマチュアとしては脚光を浴びるようになった。 その頃、俊市郎とは特に連絡をする訳でもない関係になってしまっていた。(遠く離れているので当然のことだが) 高校を卒業して、私が玉出に引っ越しをしてから、また二人の関係が戻るかと思った。 しかし、彼は私の芸人生活に無関心のようだった。 というか、後から考えれば無関心を装っていたのかも知れない。 私が毎週彼のマンションの屋上を借りて、「ピンネタ」の稽古をしていた時も無関心のようであった。 そして、私が「B&B」のコンビを結成する時、「トムジョ-ンズの歌ネタをしたいので」と、彼の家に行き、彼のオ-ディオを借りて、ネタを作らせてもらったことがあった。 「ええよ」 と、特に興味もない素振りをしていた俊市郎であったが、その表情のどこかに「そうか、ヨンちゃん(私のこと)は、他の相方見つけてプロになるんや」と、言いたげな切ない空気を漂わせていたのを記憶している。 「俊市郎と漫才コンビを組めば良かった」 これは、私が芸人を辞めてから知った俊市郎のある秘密を知ってしまってから思ったことであった。
中学2年から3年にかけて、大阪玉出の俊市郎宅へ数ヶ月に一度は遊びに行くようになっていた。
彼の登校拒否も治ったようであったが、「行ってあげたらいい」と、私の両親は大阪までの電車賃を持たせてくれた。 「阿倍野プ-ル」に二人で行った時は驚いた。 水中エア-ステ-ションなるものがあり、水中で呼吸できるスポットがあるのだ。 それよりも、道中に「モ-タ-プ-ル」という看板がやたらあり、 「さすが大阪やな。プ-ルだらけやないか」と言って笑われたのを記憶している。 そんな二人で、生まれて初めて「なんば花月」に行った。 俊市郎は舞台袖が見える場所として、最前列の一番横で立ち見を選んだ。 舞台の芸人さんは勿論だが、舞台袖に待機している次の芸人さんを見られることが新鮮だった。 トップ出番で「やすしきよし」というコンビが漫才をしていた。 場内は大爆笑。 「TVで見たことない若手コンビやけど、ホンマにオモロイなぁ」 二人の印象であった。 その後、以前このブログには書いたが、中学3年の夏休み、私は横山やすし師匠の楽屋を突然訪ねることになる。
私と俊市郎は、テ-プレコ-ダ-にコメントを吹き込み、それを交換しあうようになった。
携帯電話普及の今からは想像もつかないが、当時長距離でんわは通話料が高いので、勿論中学生が長電話なんてできない。 文通が流行っていた。今のメ-ルのやりとりと同じことである。 私も全国いろんな人と文通をしたし、究極はオ-ストラリアに住む女の子(勿論オ-ストラリア人)とも文通をしたりしていた。 吉本新喜劇の井上竜夫さんとも、ファンレタ-のやりとりから、やがて文通のようになってしまったことは以前このブログでも書いたと思うが。 手紙の文面では細かいニュアンスが伝わらないと思い、テ-プレコ-ダ-にメッセ-ジを録音して、そのテ-プを送ることにした。 最初は30分テ-プに少し録音した程度であったが、俊市郎からは30分フルに声を吹き込んだ内容が返って来た。 そうなると私も当然30分の内容を録音しないといけない。 そんなことを繰り返しているうちに、二人のテ-プのやりとりは、まるでラジオのディスクジョッキ-のようになってしまった。 BGMも懲り、話の内容も工夫して、あることないことの漫談である。 今から思えば、その頃の中学2年生にとっては、かなり高度な内容だったと思う。 そんな体験が今の仕事にどこか結びついているのかも知れない。
俊市郎が、大阪に引っ越しをして登校拒否になったことは知らなかった。
しかし、転校して暫くして、俊市郎のご両親から電話があった。 「芳樹さん、悪いけど一寸来てくれる?」 聞けば、姫路の元の家に帰って来ているらしい。 何だかわからないが、とりあえず自転車で彼の家に向かった。 そこには大阪大学で心理学を教えているという人がいて、俊市郎に催眠術をかけようとしたところ、どうしても俊市郎が嫌がるので、私を呼んだという訳らしい。 「芳樹さん、あんたが催眠術してもらったら、うちの子も催眠術にかけてもらえることになると思うので、お願い」 美人のお母さんが私にすがるように言って来た。 私は、すんなり催眠術にかけてもらうことにした。 不思議な世界だった。 暗示をどんどんかけられる。 そのことに反発心を抱いては、催眠術にはかからない。 大阪大学の教授という肩書きもあって、私はすんなりと暗示にかけられた。 その後、私を見た俊市郎も嫌がっていた催眠術をかけてもらっていた。 つまり、俊市郎のご両親は、登校拒否に悩み、催眠術で何とかしようとしていたのであった。 私のやることなら何でもやると信じてくれていた俊市郎のご両親。 転勤で大阪に転校することは仕方のないことかも知れないが、そんなことで家族が凄い苦労をしている・・・。 正直、気の毒になった。 でも、催眠術をかけられても俊市郎の登校拒否は治らないようであった。 考えてみれば、姫路の田舎から、突然大阪の玉出への引っ越し。 カルチャ-ショックも、かなりあったのだろう。 私は、そんな俊市郎を放ってはおけなかった。 そして私の選んだ手段は、そんな俊市郎と文通をすることだった。 最初は、手紙のやりとりだった。 ところが、二人の出会いでもあったテ-プレコ-ダ-の文通に発展して行く。 |
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