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萩原芳樹のブログ
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「ヤングタウン」と「ヤングお-お-」の前説に明け暮れていた19歳の頃。
親に学費を出してもらっている大学にも通わず、昼間はパチンコをしたり、喫茶店でだべったりの日々。
ただ、毎日のネタ作りに関しては強迫されているかのように、作らねばなりませんでした。

深夜、ネタ作りから自分を解放して、26号線の交差点に出ている屋台のうどん屋によく通ったものです。
(鶴橋の二畳の部屋でチキンラ-メンをすすっていたのと比べると贅沢な夜食でした)
屋台のうどん屋の兄ちゃんは、まだ20歳そこそこ。四国の松山から大阪に出て来たばかりらしいです。

うどんを食べながら、出来たての新ネタを、早速試したりしたものでした。
「とんぺ-ちゃん、頑張りや」(その頃の芸名は『ダッシュとんぺ-』)
うどん屋の兄ちゃんは必ず励ましてくれました。

帰り道、夜道を歩きながらもネタの稽古。ブツブツ言いながらアパ-トに向かいます。
その時でした。向かいから来たオッサンが突然声をかけて来たのでした。
「兄ちゃん、海外旅行に行かへんか?無料で行かせたるで」と。

私は、そのオッサンが何者なのか知っていました。
深夜になると26号線に現れて、夜遊びをしている若者に、「無料で海外旅行を斡旋している人物」なのです。

「オッチャン、せっかくやけど断るわ」
あっさりと断って、私はアパ-トへと。
無料で海外旅行・・・この意味を理解できますか?

つまり「麻薬の運び屋をしてほしい」ということなのです。
ああ、恐ろしや、恐ろしや。



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ブログを暫く更新できてなくて失礼しました。

実は、パソコンが突然「バン!」という音と共に壊れてしまったのです。
「女忍のブル-ス」以来、織田信長が敵のような気になってしまい、暇さえあれば、「信長の野望」のバソコンゲ-ムにて、織田信長を抹殺し続けていました。
ひょっとしてパソコンが壊れたのは、「信長の陰謀」だったのかも知れません。

さて、泥棒に入られて部屋の隅にあった筈の大きなモノが盗まれ、それが何だったのかを思い出せなかった私。
翌日、警察を呼んで被害届けを出した時、それが何だったのか、まだ思い出せません。
「何を盗まれたのですか・思い出してください!」
警察官に追求されて、やっと思い出したのです。
「あっ、デパ-トの紙袋でした」と。

泥棒は空の紙袋に小物を詰め込んで逃げたのでしょう。
警察官もさすがにあきれ顔。

翌朝、アパ-トの管理人が隣りの部屋の人としゃべっている会話が聞こえてきました。
「隣りの若い男の子、空き巣に入られたらしいから、あんたところも気つけや」
「それで、現金いくら盗まれたの?」
「何言うてんねんな。盗まれるような現金なんか持ってる訳ないやんか」
管理人の余りにも無責任なその発言に、ムカムカしたことを記憶しています。


「ヤングお-お-」の前説を続けていた結果、やっと本番に出演させてもらえるチャンスが来た。
「本物は誰だ」という人気コ-ナ-で、相撲の行司さんのニセモノの役である。

このコ-ナ-は、当時売り出し中の文珍さんが、毎週ボケを担当していて、「そんな奴おるかい!」というニセモノボケが人気となっていた。

私は、そのネタフリの役目として出演。
リハ-サルで、きっちりセリフを決められ、「余計なボケはしないように」と、ディレクタ-から言われていた。
当時ロン毛だった私だが、「以外にロン毛の行事さんがいるというのも、説得力がある」というものだった。

しかし、毎週番組の放送に出ない前説の身である。
せっかくのチャンスにボケない手はない・・・とばかりに、私は打ち合わせにないボケを連発してしまった。

まず「軍配はどこで買うのですか?」という質問に対して、
「軍配屋さん」
ここで、まずは大爆笑。
次々と質問される内容に対して、私はリハにはなかったボケを連発。
大ウケだった。
しかし・・・。

本番が終わって、ディレクタ-に呼び出された。
「君ねぇ、笑いは文珍君が取るのだから、君はとりあえずはネタフリだと説明していただろう。せっかく本番のチャンスを与えたのに。来週からは、また前説に逆戻りだね」

叱られて次からの本番の夢も泡と消えた訳だが、私は自分のしでかしたことに満足していた。
「台本なんか、いらん!俺は自分の力だけで爆笑を生んだ」

帰りに、一人で祝杯を上げることに。
帰宅したのは、深夜2時頃だった。
アパ-トの部屋の前に立ち、鍵を開けようとすると・・・。
何と鍵が壊されてしまっているではないか!
「まさか?泥棒?」

部屋に入ると、まず気付いたのはTVがないこと。
タンスを開けてみると、ス-ツ類が全て無くなっていた。
すぐ警察に連絡しようと思ったが、もう深夜の2時。
「明日の朝、連絡するか」
あきらめて寝ることに。
目覚まし時計をセットしようと思ったら、その目覚まし時計がない。
「ラジオでも聴くか」と思ったら、トランジスタラジオも盗まれていた。

よくよくチェックしてみると、「あるある」まだまだ盗まれていたモノが。
テ-プレコ-ダ-もない。
手鏡すら無くなっている。
全身脱力感に襲われた。
自分が何気なく生活で使っていたモノが、このように一挙に無くなるというのは、本当に気力が失せてしまうものかと感じた。

今日は、「ヤングお-お-」に出演出来た記念日の筈。
ところがいざ帰宅してみると、とんでもないことになっていたのだ。
そして・・・。
部屋の隅に置いてあった筈の大きなモノが消えていることに気付いた。
「?・・・ここに何を置いていたのかなぁ」
動転して、部屋の隅に置いていた大きなモノが何だったのかも思い出せない。
取りあえずは、寝ることにした。


思えば、中学3年の時に横山やすしさんに初めて出逢った時に言われた言葉。
「人の後を着いて行っても超えることはできない。己なりの道を極めること」
まさに、これでした。
プロの先輩方の漫談を、私は模倣していたのに過ぎなかったのかも知れません。
それでは、ウケないのは当たり前の話。
そもそも高校2年生で、「ヤングタウン」初登場した際、プロもアマも誰もやらない自分流の漫才をやったからこそ、今がある・・・。

当時、私が開発した新ネタは、歌手の動きを何かに例えるというネタでした。
「辺見マリの『♪やめ~て』の、あの手つきは何やねんな。私は、左官屋かなと思うてた。どう見ても左官屋が壁を塗っているようにしか見えないでしょう」
と、曲に合わせて、歌をフリをするというネタ。

当時のアイドルの歌は、それぞれ独創的な動きがあったので、ネタに出来やすかったのです。

すぐに、TVの「ヤングオ-オ-」からも、前説のレギュラ-が、飛び込んで来ました。
「ヤングオ-オ-」は、MBSと吉本が協力して作っていた人気番組。
当然、吉本さんからも、いろいろと声をかけていただきました。
しかし、当時の既存の寄席のブログラムに、私のような奇妙なピン芸人が出るチャンスはなかったのです。

世間の注目度が私に対して高まって来ていることは感じていました。
でも、相も変わらず私は、玉出のアパ-トで貧乏暮らしが続くのでした。

玉出のアパ-トで連日ネタを作っては、毎週「ヤングタウン」の前説で新ネタを披露していた日々。
19歳だった。

ネタを作れば、「本当に面白いのかなぁ」と、不安になって試してみたくなるもの。
高校時代は、よくクラスメ-トに漫才の新ネタを聞いてもらって、試していた。

しかし、玉出の一人暮らしでは、そんな試す相手すらいない。
そんな時、新ネタを試す場所を発見できたのである。
場所は、アパ-ト近くの喫茶店「レ-ブ」というお店。
昼間から、暇な若者が集まる店だった。

店のバ-テンは、東京からの流れ者。
客はといえば、田舎モノ丸出しのホステスや、煙突掃除のお兄さん、深夜営業の屋台のうどん屋の兄ちゃん・・・等々。
とにかく昼間暇な連中が集まっては、ワイワイとくだらない話ばかり。

私が毎週その店で、新ネタを話すると、みんな興味を持って聞いてくれた。
「面白いなぁ。それは絶対にウケるで!」
喫茶店の連中は、必ず太鼓判を押してくれるのだが、またまたスタジオに行けば、笑いは今ひとつの状態が続く。

そんなある日のこと、私は今努力していることが自分に合っていない芸だと感じたのであった。
私の当時やっていたのは「漫談」と呼ばれる喋り芸。
私は、本来漫才出身である。
二人のかけあいのテンポや、動きのリズムで笑いを作って来た人間。
そんな私は、いきなりしゃべくり一本の漫談で勝負するには無理があると悟った。

よくよく考えてみれば、子供の頃から好きだったお笑い芸人さんといえば、「東京ぼん太」「浅草四郎」「白川珍児」などの動き芸を売りとしていた芸人さん達。(*この方達が、どんな芸人さんだったのかは、後日報告します)

しかし、当時のピン芸人で、しかも関西のピン芸人といえば、落語家さん以外では漫談の人ばかりであった。

私は、自分のピン芸を脱皮する覚悟を決めた。
得意の動き芸を取り入れたピン芸にチャレンジしてみようと思ったのだ。
世間は誰も認めてくれないかも知れない。
しかし、やってみるのみ。

そう思って改革したピン芸が、翌週の「ヤングタウン」で、大爆笑となった。
早速、TVの「ヤングオ-オ-」からも、前説の依頼が。
それが、どんなネタかと申しますと・・・。
鶴橋の二畳で門限のある生活に比べると、玉出の四畳半暮らしは快適だった。
朝、好きな時間に起きる。(ほとんど大学には行ってなかった)
アパ-ト隣りの「ヤマザキパン」で、食パンとチェリオを買う。
そして、ネタ作り。
毎週土曜日には、7分程度の新ネタを披露しなければならないのだ。

毎週のネタは、ぎりぎりの金曜日まで迫っても、なかなか満足できる状態ではなく、金曜の深夜に、友達の「俊市郎」のマンションの屋上で声を出して稽古していた。

でも、一週間かけて作った「ヤンタン」の前説ネタは、ほとんどウケない状態だった。
アマチュア時代は、あれだけ爆笑を取れたのに、ブロに転向したことで世間の目が変わったのか、全くウケなくなってしまっていた。

毎日放送のディレクタ-は、それでも決してNGは出さずに、ガマンして使ってくれた。毎回、感想もいただきながら・・・。

前説のギャラとして、交通費という名目で毎回3千円いただいていた。
これが当時の生活費だった。
勿論、現役の大学生だったので親からも仕送りを受けていたが、家賃を払って、残りは遊んですぐに使ってしまっていた。

当時の私は、金曜が勝負の日であった。
勿論ネタを完成させなければならない日でもある。
しかし、金曜の朝には、私の財布にはほとんど金が残ってなかった。
「明日になれば3千円入る」というので、ぎりぎりまで使ってしまっていたのだ。

金曜の夕方、ネタ作りもそこそこに、よく近所のパチンコ屋に出かけた。
財布に残った最後の300円(翌日MBSに行く交通費は別として)

ネタがすでに完成していた時は、本気で勝負に挑んだ。
「300円が、千円に化ければトンカツが食べれてビ-ルも飲める。しかし、ゼロになったらストックのチキンラ-メン食べて寝るしかない」

300円で買ったパチンコ玉を握りしめて、真剣に台を選ぶ。
「天釘」「肩の釘」「足の釘」全てを入念にチェックして、いざ本番。

チュ-リップは、なかなか開かない。
残りの玉が、どんどん減ってしまう。
トンカツとビ-ルの夢が幻のように遠ざかって行く。
そして、最後の一球が見事に「天」に入り、チュ-リップが開いた!
しかし、出て来た15個は全てチュ-リップをさすめたまま空振り。
「ああ!チュ-リップ開いたままなのに」と、落胆した時、床に落ちていたパチンコ玉を発見。
早速、一球入魂で打ってみる。
チュ-リップに命中!

その後、調子が出て、玉が出ること、出ること。
結局3千円も勝ったので、トンカツとビ-ルに加えて、近所のスナックにまで足をのばしてしまった。

翌日のネタは、ボロボロだったのを記憶している。


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