萩原芳樹のブログ
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鶴橋の二畳の部屋の生活は、やはり耐え難くなり、三ヶ月ほどで引っ越すことにした。
何よりも、すでにプロのお笑い芸人としてスタ-トしているのに、夜10時という門限はきつすぎた。 二畳という空間だから、勿論キッチンなんてない。 共同の小さな手洗い場があるだけ。 深夜、お腹が空いたら電気ポットで「チキンラ-メン」を作っては食べていた。 今でも、チキンラ-メンを食べると、その頃のことを思い出す。 改めて、チキンラ-メンという素晴らしい商品を発明された「安藤百福」さんは凄いと感謝する。 チキンラ-メンは、昭和33年、「安藤百福」さんが自宅裏の小屋にこもって、研究を重ねた結果、やっと完成した「魔法のラ-メン」 お湯を注ぐだけで手軽に食べられるチキンラ-メンのことを、当時の人々は「魔法のラ-メン」と、呼んだらしい。 百福さん、この時48歳。 たった一人、自宅の裏の小屋にこもって完成させた歴史的食品である。 さて、鶴橋の二畳の部屋から、私は玉出の四畳半のアパ-トに引っ越し。 「四畳半が、こんなに広々としているのか」と、感動すらした。 姫路の実家では、8畳と3畳の二間を贅沢に使っていたのに、人間環境によって変わるものである。 玉出のアパ-トは、地下鉄の出口すぐに位置する木造三階建て。違法建築の3階だった。 何故玉出だったのかというば、中学生の時、生まれて初めて漫才をやった相方が住んでいたから。 俊市郎といって、中学2年で姫路から玉出に引っ越したので、時々遊びに来ていたし、ピンネタを声出して稽古するのに、彼のマンションの屋上をよく使わせてもらっていたから。 つまり、稽古場にも近いし、友人宅が近くにあるので安心。 でも、この頃の玉出の街は、本当に面白い連中の集まりで、その頃の毎日が楽しかった。 どんな出来事だらけだったのか、次回から思い出しながら、ゆっくりとお話しますね。 PR
姫路の高校を卒業し、大学一年の時、ひたすら八方さんの楽屋通いを続けていました。
その頃の私の芸名は「ダッシュとんぺ-」 高校時代に「ヤンタン」に出演した際、三枝さんが「姫路東高校と、姫路北高校のコンビやから、東と北で「トン、ペ-」と、名付けてくださいました。 「ダッシュ」は、私達の漫才が勢いが良いからだったそうです。 そして、「ペ-」の相方がいなくなったので、勝手に「ダッシュとんぺ-」と、名乗ってピン芸人の活動を。 いつものように八方さんの楽屋に行くと、そこには今の西川のりおさんの姿がありました。 出番を終えた八方さんから、「君等そこの喫茶店に先に行って待ってて」と。 のりおさんと私は、二人きりになり、やおら喋り始めたのです。 私は、高校2年の時から、のりおさんのことを意識していました。 「ヤンタン」のオ-ディションを受けた際、揃いの服を着て、プロ気取りだったのは、約百組ほどの中で、のりおさんところと、私のところだけだったのです。 のりおさんの小説にも登場しますが、相方が中学の同級生の田中さんという人。 この田中さんが、ツッコミ上手いし、男前だったのです。 オ-ディションで、互いに意識はしていたものの会話する機会もなし。 その後、高校3年の時「トップホットシアタ-」(現在のナビオにあった寄席)に「淀公一公二」という名前で、のりおさんは田中さんと舞台を踏んでおられました。 この二人の漫才に、私は笑い転げたのを記憶しています。 とにかくアドリブだらけの漫才。 新人離れしたステ-ジだったからです。 その後「淀公一公二」のコンビは、どうやら解散したようで気にはなっていました。 そこで、八方さんの楽屋で再会となった訳です。 話を聞くと、今は「横中バックケ-ス」という新コンビを組んで「松竹芸能」の舞台に立たれているとか。 八方さんが来るのが遅かったせいもあり、私とのりおさんの会話は二人で盛り上がりました。 こうして、のりおさんと私は、急接近することになったのでした。
あれは、高校生の頃だったのか、それとも卒業後のことだったのか忘れましたが、楽屋に遊びに行った帰りに、八方さんに寿司をご馳走になったことがありました。
「なんば花月」の楽屋を後にして、八方さんと私は梅田に向かっていました。 「地下鉄で行こうか」と、二人して御堂筋線に乗ることに。 その時でした。 「寿司食べようか」と、突然八方さんが言い出されたのです。 「ハイ」 寿司をご馳走になれるのかと、私は喜んでいました。 すると、地下鉄「難波」のすぐ傍にあったテイクアウト専門も寿司コ-ナ-で、「巻き寿司二本ちょうだい。切らんでええ。包まんでもええから」 と、八方さんは、お金を払うと、巻き寿司二本を受け取り、一本を私に。 梅田までの切符を買ってくださり、巻き寿司を手にしたまま、八方さんと私は満員の地下鉄に。 夕方だったので、かなり満員で身動きできないような状態でした。 でも、そんなギュウギュウの地下鉄に立ったまま、八方さんは平然と巻き寿司をパクつかれたのです。 私がためらってると、「何や、寿司嫌いやったんか?」と、八方さん。 「いいえ、好きです」 「そんなら食べんかいな」 今でこそ節分に巻き寿司を一本食べる習慣はありますが、その頃そんなことをする人もなし。 まして、場所は満員の地下鉄に立ったままの状態です。 私は周囲の視線を無視して、その巻き寿司をいただくことにしました。 恥ずかしかったです。 でも、八方さんは平然と巻き寿司をパクついておられます。 この時、私はこう思ったのでした。 「芸人を目指す人間が、こんなことを恥ずかしがっていてどないするのや」と。 結局、食べ終わって梅田に到着して、「ごちそうさまでした」も、確か言えてなかったと思います。 八方さん、大変遅くなりましたが「ご馳走さまでした」
さて、鶴橋の二畳の部屋で、息苦しい暮らしをしていた毎日でしたが、姫路から出て来た私にとっては、難波に近かったことが何よりも嬉しかったのです。
一応「大阪芸術大学」に進学したばかりだったのですが、向学心は皆無。 八方さんが「なんば花月」の出番と知るや、鶴橋から歩いて通っていました。 八方さんとは、高校時代「ヤングタウン」に共演したことがキッカケで親しくさせていただいていました。 高校時代、学校をサボッては八方さんの楽屋にオジャマして、生意気にも楽屋で寝ころびながら、八方さんと談笑したりしていたのです。 八方さんとは常に新ネタの話ばかり。私の新作をいつも興味深く聞いてくださいました。 そんな八方さんが、ある日のこと。 「君、いつも歌手みたいな服着てるな。どこで買うてんのや?」と。 「阪急ファイブですよ」 「阪急ファイブ?」 当時「阪急ファイブ」は、大阪で初めてのファッションビルとして誕生し、若者に人気のスポットでした。 ブランドは、まだ数少なく、メンズでは「JUN」「VAN」が存在している程度。 「阪急ファイブのJUNという店で買ってるんですよ」 私が、そう告げると、 「ワシをそこへ連れて行っていれ」と。 二人で阪急ファイブのJUNに行きました。 当然のように店員がウルさくまとわりついて来ます。 そこで、八方さんはキレてしまったのです。 「ウルさいな!さっきからヤイヤイと!ゆっくり服見られへんやいかい!」と。 結局、八方さんは店員に立腹してすぐ店を出られたのですが、もしも服を買う気になっていたら、もっと立腹されていたと思います。 それは、足が余りにも短いことに対する店員の態度で。 確かに70年代のブランド店の店員は、かなり上からモノを言っていましたからね。
鶴橋の二畳の下宿は、さすがにヘコむ暮らしでした。
大きな旧家の二階に、二畳の間切りをしてある部屋が20部屋ほどあるという下宿。 朝夕二食付きで、一万円という家賃でした。 住んでいたのは、どう見ても工事現場のような人達ばかりで、学生や若者は誰一人としていません。 「食事が付いているから、いいじゃないか」と、思われるかも知れませんが、これがかえって迷惑な話。 夕飯のメニュ-に、カレ-が出されることがありました。 御飯は普通盛りなのですが、その上のカレ-のル-は少しだけ。 下宿のお母さんが「おかわり自由ですよ」と、言っておられたので、私は鍋にあるカレ-のル-を足そうとしました。 すると、「カレ-のおかわりはダメです。おかわりは白御飯だけです」と。 そこへ、下宿屋の子供がノコノコと現れてテンコ盛りにカレ-のル-を自分の皿に盛って食べているのです。 「これは下宿というよりも、虐待やないか!」 アホらしくなりました。 それに、その家の玄関は一つですから、門限があるのです。 夜10時以降は鍵をかけられてしまいます。 夜中にお腹が空いたからと、外出はできないのです。 窓(といっても30cm四方の鉄格子のついた小窓ですが)の外から夜鳴きラ-メンの音を聞きながら、角砂糖をなめて寝付いた思い出があります。 その頃、MBSラジオの前説で、毎週7分のネタを作らなければなりませんでした。 小さな鉄格子付きの窓の二畳の部屋で、夜は外出禁止。 でも、大阪に住んでいられることが幸せだと思い、まるで留置場のような環境で、連日ネタを作り続けていたのです。 今思えば、あの頃が一番多くのネタを作り続けていたのかも知れません。
MBS「ヤングタウン」のディレクタ-から、深夜ラジオのメインパ-ソナリティにという夢のようなお話。
早速ラジオ制作部長のところに連れて行ってもらいました。 「この子、面白いので4月から始まる『チャチャヤング』のパ-ソナリティにどうかと思っているのですけど」 ディレクタ-から、推薦のお言葉。 しかし、部長は私をまじまじと見て、 「この子、高校生やろ?高校生に深夜番組は無理と違うか」 そんな冷静な発言の後、 「君、面白いのか?そしたら、ここでビックリするような面白いことやってみ」と。 取り立てて一発芸もない私は、固まっていました。 「渡辺君、アカンで、この子。君な、君と同じように連れて来られたキャッシ-(プリン&キャッシ-のキャッシ-です)は、いきなり裸になりよったで」と。 結局部長から却下され、局の廊下をトボトボとデイレクタ-と歩いていました。 「残念やったなぁ。仕方ない、君暫く『ヤンタン』の前説でもするか」と。 前説・・・つまり本番前に客を和ませる為に、毎週漫談のチャンスを与えてくださるというのです。 「宜しくお願いします」 高校卒業を目前にして、私は大坂に部屋を持つことになりました。 父の友人の紹介で借りた部屋で、二畳一間の下宿でした。 半畳の押し入れがあり、その押し入れから布団を取り出しては、押し入れに布団半分を突っ込んで寝るという日々。 場所は鶴橋の駅の傍でした。 この二畳一間から、私の芸人人生は始まり、初めての一人暮らしのスタ-トでした。 *高校時代の漫才の相方は、「プロになる気がない」という理由で、高校 3年の時にコンビは解散。その後は「ピン」として活動していたので す。 |
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