萩原芳樹のブログ
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さて、当時赤坂にあった「TBS」と、曙町にあった「フジテレビ」の二つの構成会議を、同時にこなしていたという先輩の放送作家。
その術とは、こういうことだった。 まず「TBS」の会議中に、鞄を置いたまま部屋を出て行く。 皆は電話でもしに行ったのかなぁ・・・と思う。 (鞄がそこに置いてあるから) しかし、先輩忍者はタクシ-に乗って「フジテレビ」へ。 ここでは、何事もなかったような顔をして、ノ-トを広げて会議に参加。 そして、数十分すると、今度はノ-トを置いたまま退出する。 これまた、電話でもしに行ったのかなぁ・・・と、皆は思う。 (ノ-トは置いたままだから) しかし、先輩忍者は、またまたタクシ-に乗り、赤坂のTBSに戻る。 構成会議というのは、通常2~3時間程度のものですが、先輩忍者は3往復ほどしたとか。 こんな話を、まるで自慢のように聞かされたものです。 結局、その先輩忍者は今や「廃業状態」に。 ごまかして生きている奴は、やはり消えて行く運命なのですね。 「えっ?私も忍者かって?」 ウ~ン・・・忍者というよりも、侍・・・いや、職人かな? 職人・・・と、呼ばれることに憧れて日々の仕事をこなしているような気がするなぁ・・・。 さて、「女忍のブル-ス」の公演まで一ヶ月を切りました。 稽古は架橋に突入。 次回から、このブログでは今回初めて芝居に参加していただいているメンバ-について、ご紹介して行きます。 PR
よくよく考えてみると、我々「放送作家」という仕事は、忍者の仕事に似ていることに気付いた。
我々は、いろんな放送局に出入りしているので、「あっちの放送局は、今どうなのですか?」等と、よく聞かれる。 つまり、忍者が敵の城に忍び込んで、その兵力や戦い方をスパイ活動していたように、他局の情報を流すことはよくある話。 最近の私は出入りしている局も限られているので、そんなことを聞かれる機会もめっきり減ってしまったが、若い頃には随分とあった。 でも、悪い意味ではなく「人気番組が、どんな風に作られているのか、そのノウハウを知りたい」というのは大切なこと。 特に地方局では、全国区の人気番組のノウハウを盗むことも必要だと思う。いや、かつてはそうだったというか・・・。 今や、あえて盗めるような独自のノウハウを持った番組が激減してしまったから、我々忍者もスパイしようにも、ネタがないのが事実である。 忍者が盗みも働くように、「人の企画や原稿を盗む」という奴等もいた。 いや、今だに多い。 私もかつては、よくパクられたものだった。 が、決してパクッた経験はない。 そういえば、先輩の放送作家で、本当に忍者のような人がいた。 同じ時間帯に二つの会議(我々は構成会議に出るのが仕事)に、同時に出ていたというスゴ技を使っていた。 確か、TBSとフジテレビで同時間に行われている二つの会議に出席していたスゴ腕の先輩。 物理的に考えても絶対に無理な話。 しかし、その先輩忍者には、それを平気でやる技を持っていたのだ。 果たしてどんな技なのか・・・久しぶりに「続き」ます。
さて、次男の信雄が勝手な行動をして、伊賀忍者に敗北したと聞かされた安土城の信長はカンカンです。
「このままでは、織田軍の恥」 とばかりに、その二年後の天正9年、信長は伊賀に総攻撃をかけます。 その数、五万の大軍。 それに増して、甲賀勢を味方につけて、伊賀忍者の手の内や、伊賀の里の情報も、しっかり知った上での総攻撃。 伊賀の里は、あっという間に全滅しました。 信長の攻撃は残忍なことでも有名です。 女子供も問わず、伊賀の者は皆殺し同然であったとか。 結局、残った伊賀の忍者達は、伊賀の里を捨て、全国バラバラに散って行きます。 そこで各地の大名に仕える身となり、その後も伊賀忍者は各地で活動を続ける訳です。 全国に散った伊賀忍者達が、やがて伊賀の里に戻って来るのは、ずっと先の江戸時代に入ってからだそうです。 ざっと大まかでしたが、これが「天正伊賀の乱」です。 発端から考えてみると、信雄という一人の人間の勝手な行動が、数多くの伊賀の人達を死に追いやったのです。 自分の欲や名声の為に、勝手な行動をして、多くの庶民を犠牲にしてしまう・・・何か現代社会の縮図を見ているようですね。
北畠信雄は、1万の兵を三隊に分けて、三方から伊賀に侵攻します。
しかし、伊賀衆は事前に信雄軍三隊の動向を探っており、先回りして山中に潜んで信雄軍が来るのを待ち構えます。 そして、信雄軍が山間にさしかかった時、木の上や、物陰から弓矢や鉄砲、焙烙玉でゲリラ攻撃を開始したのです。 まるで「ベトナム戦争」の「ベトコン」ですね。 ベトナム戦争でも米軍は森に潜んでは夜襲して来るベトコンに随分と手を焼きましたが、ちょうど同じようなことです。 結局、伊賀衆は得意とする夜討ちや奇襲戦で、信雄軍をことごとく退けます。 信雄軍は大切な武将まで殺される始末。 挙げ句の果ては、ほうほうの態で逃げ帰ってしますのです。 わずかの軍勢で一万もの大軍を追いやった伊賀衆の噂は、勿論全国に響き渡りました。 怒ったのは信長です。 信雄に「勝手なことはするな」と、言ってあったのに、勝手に伊賀に侵攻してしまい、失敗した信雄。 信長は「織田信長」の名誉の為、伊賀侵攻を決意してしまうのです。
さて、北畠信雄は伊賀に攻め込む為の城を築こうとします。
「丸山城」です。 普通なら、敵国が自分達の領土に城を築こうとすれば、すぐ戦いになります。 しかし、丸山城は何事もなかったように建築され、完成しかかったところで、焼失してしまうのです。 これには、一つのある説があります。 「伊賀者は銭さえもらったら何でも引き受ける」 と、寝返った下山甲斐に言われて、なんと伊賀者に高額の建築費用を渡そうとしたとか。 普通なら、ここで「怪しい」と睨み、建設に反対する訳ですが、伊賀者はこぞって高額の建設費用をもらって、一生懸命に城造りを始めたとか。 そして、城が完成間近の段階になって、伊賀者の手によって城を焼かれてしまったという説。 伊賀者は、さすがにズル賢いですよね。 城造りの日当さえもらったら、城を自分達の手を燃やしてしまったのですから。 こんなことをされては、信雄もカンカンです。 そして、天正7年9月。 信雄は一万の兵を率いて伊賀を攻撃します。 この時の話が、今回の「女忍のブル-ス」です。 さてさて、一万の兵を率いて伊賀を侵攻した信雄。 この後、いったいどうなったのか・・・また続けます。
さて、信長の次男「北畠信雄」が、伊勢を治めることになり、田丸直昌が旧家臣を惨殺して、いよいよ「天正伊賀の乱」が起こります。
天正6年のこと。 伊賀の上忍の一人であった「下山甲斐」が、ある日突然、伊勢の信雄を訪ねることから始まります。 「伊賀の国を攻め滅ぼすには、今が絶好の時でございます」 と、何を根拠にこんなことを言ったのか、歴史上でも不可解なのですが、下山甲斐は、自分の伊賀の国を敵にまわして、信雄に密着したのです。 信雄は、信長の次男と言われていますが、実質は三男であったという説もあります。 三男の「織田信孝」と、ほとんど同時に生まれた来た運命。 「別腹兄弟」ですよね。 別腹で思い出したのですが、腹違いの兄弟のことを、大平サブロ-さんは、「プリンちゃん」と、呼んでいるとか。 プリンは、お腹一杯になってからも食べられるので、別腹です。 「旨いこと言うなぁ」と、感心してしまったのですが・・・。 まぁ、そんなことは置いておいて、下山甲斐の言葉を受けて本気になった信雄は、伊賀を攻めようとします。 でも、信長には秘密での行動。 つまり、信孝よりも凄いという証拠を見せたかったのでしょう。 いわば、あせりです。 ここで、信雄がまず決行したのが、何と攻める伊賀に城を築くという、とんでもない計画でした。 戦国時代の戦法として、有名なのに秀吉の「一夜城」伝説がありますが、そのように侵攻する相手の領地に城を造ってしまうというのは、成功すればかなり高い成功率だったのでしょう。 でも、信雄は見事に失敗してしまいます。 その失敗には、様々な説があるのですが・・・。 また、続けます。 |
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