萩原芳樹のブログ
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さて、忍者の技や道具に関しては、この後も語り尽くせない程あるのですが、この辺りで「女忍のブル-ス」の時代背景についてお話することにします。
「お茶子のブル-ス」の時もそうでしたが、「女忍のブル-ス」でも、その時代背景を理解していただいてから、芝居を観ていただいた方が、より楽しめると思いますので。 という訳で、まずは「戦国時代の伊賀」について、お話します。 伊賀国は、鎌倉幕府滅亡以降、240年近くもの間、守護が不在同然の地であったようです。 守護自体は、いるにはいましたが、伊賀を統治できた訳でもなく、地侍から叩き出された守護もいたとか。 守護不在の地・・・ですから、当然のように小領主達の争いの耐えない土地でもありました。 その頃は各地で「戦国大名」なるものが生まれ、「天下統一」を目指して合戦を繰り返していたのです。 一方の伊賀では、小領主同士での争いの日々。 小領主達は、それぞれ下忍を抱えていて、いわゆる「隣村の領主」的な敵の館を襲ったりしていたようです。 小領主の館は、ご存じ「忍者屋敷」 様々のカラクリのある館で侵入した敵を、あざむきます。 しかし、そんな伊賀の国に戦国大名が侵攻して来たら、いったいどうなるのか・・・。 実は伊賀国には「伊賀惣国一揆」という、66人もの地侍による組合のような、一種の同盟が結ばれていたのです。 随分とおかしな話ですが、小競り合いを続けていた小領主達も、いざ他国から敵が侵攻して来ると、一致団結して侵入者に立ち向かって行ったらしいのです。 その代表的な出来事が「天正伊賀の乱」です。 天正7年、伊賀の隣国の伊勢を治めていた、織田信長の次男「北畠信雄」は、突然伊賀を侵攻して来ます。 そして、最終的には信長の手で、伊賀の里は壊滅状態にまでされてしまうのですが・・・。 「女忍のブル-ス」は、そんな天正7年。 「天正伊賀の乱」の発端であった頃の物語です。 歴史に残る「裏切り」と「惨殺」の繰り返し・・・。 「天正伊賀の乱」とは、いったいどんな出来事だったのか。 はたまた、その奥底にどんな人間ドラマがあったのか・・・。 次からのブログで、少しずつお話して行きます。 PR |
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