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萩原芳樹のブログ
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寛太寛大のことを書いていて、ストリップ小屋修業の話から、急にあるストリッパ-のお姉さんのことを思い出したので、書いてみることにしました。

吉本をやめて、上京した私でしたが、東京の芸能界は厳しく、そう簡単にテレビの仕事などにありつけませんでした。

私はあるプロダクションと契約をして、「キャバレ-まわり」の芸人暮らしを始めます。

当時はキャバレ-全盛期で、ステ-ジにはフルオ-ケストラもいる華やかな時代です。

吉本を離れてからちょうど半年後、私は北海道の帯広のキャバレ-に来ておりました。
8月上旬の北海道にいるには最高の季節です。
事務所から、切符をもらって生まれて初めての北海道の旅。
最初はウキウキ気分でしたが、何せ一週間も同じキャバレ-の舞台、正直あきてしまいます。

毎日二回の夜ステ-ジ以外は何もすることはありません。
昼間はパチンコでもして時間をつぶすしかない一週間。
ところが、余り暇すぎて、私は所持金全てをパチンコでスッてなくしてしまったのです。
食事と寝泊まりは、キャバレ-が保証してくれているし、帰りのチケットもあるので大丈夫。
しかし、タバコ代やら、コ-ヒ-代等いっさい無くしてしまった私。
まだ残り5日間ほどありました。
「どうやって残り5日間を過ごそうかなぁ」と、思っていたら、救いの神が現れたのでした。

キャバレ-のステ-ジ、ビッグゲストの場合は40分ショ-なのですが、私の場合25分が持ち時間で、前座として歌の方やストリップの方が15分ステ-ジをつとめられるのです。
帯広のキャバレ-では、ストリップのお姉さんが前座でした。

毎夜、ストリップのお姉さんは、ステ-ジのフィナ-レに自らパンツを客席に放り投げて下りられます。
その後、私が出て行く訳ですが、必ずと言っていい程、その姉さんの投げたパンツが投げ返されて来ました。
私も芸人。そのパンツを頭にかふって平然と舞台を続けるしかありません。

ストリップの姉さんは、ステ-ジでは若く見えましたが、楽屋で見ると、どう見ても40位の方でした。
私はまだ21歳。まるで親子。

姉さんに「パチンコでスッテンテンになって全然金ないんですわ」と、私が言うと、
「大丈夫。明日からタバコとコ-ヒ-は私が全部面倒見てあげるから」との優しいお言葉。

次の日からは、昼間二人で喫茶店に行って、全部姉さんにお世話になる日々となりました。
言っておきますが、肉体関係なんか全くなかったですよ。そんなんじゃないんです。わかってもらえるかなぁ。
「明日、摩周湖に行かない?」
姉さんが、タバコをもめ消しながら、言い出しました。
「一度、摩周湖に行きたかったの。つきあってよ。朝8時に摩周湖行きのバスが出てるから、一緒に行こう」
朝8時と聞いて、起きる自信のない私はナマ返事を。

翌朝、旅館の部屋の扉をドンドン叩かれ「8時よ。摩周湖行こうよ!」
と、姉さんの声がドア越しにありましたが、「姉さん、一人で言行って来て。僕、寝てますんで」と。

その姉さんが、何故摩周湖にこだわったのか、今でも私にはわかりません。
その夜のキャバレ-の楽屋で会った時「良かったわよ。摩周湖」それだけでした。

そんな帯広の一週間が終わろうとしていました。
姉さんは私の部屋に来て、「これからどうするの?」と。
私は一日も早く売れたいことを散々語りました。
「姉さんは?」と、聞くと・・・

大きなトランクを見せてくれました。
そこには、赤いカ-ディガンを始めとして、冬物の洋服がぎっしり。
「姉さん、これ冬物・・・いつまで旅すんの?」と、聞くと、
「明日からは札幌で、その後は小樽、そして旭川とずっと正月まで旅が続くの」と。
「いつ自分の家に帰れるの?」と、聞くと、
「そうねぇ、正月は3日程横浜の家に帰れるけど」
「誰が待ってるの?」
「誰も待ってない。妹夫婦のマンションの一角に私の荷物を置かせてもらってるだけ。それが私の家」と。
私は思いました。地方のキャバレ-でストリップという自らの裸体をさらけ出して、帰る場所もなく生きている女性・・・いったい何なのだろうか・・・と。一緒に摩周湖に行っていれば良かったな・・・と、少し思いました。

「正月過ぎたら、今度は半年かけて九州よ」
姉さんは重いトランクを片づけながら呟きました。

一週間のタバコ代とコ-ヒ-代、お世話になったまま、何のお礼も言わずに私は姉さんとサイナラしました。
あのストリップの姉さん・・・それからどんな人生があったのでしょうか・・・。
時々、ふと思い出したりしてしまいます。



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早速「さすらいのUSJ」さんから、人生幸朗師匠か、枝雀師匠に関してのエピソ-ドをとありましたので、お答えしますが・・・。

残念ながらお二人とも、個人的に余りかかわりのなかった方でして、人から聞いた話程度しかできません。
(それやったら偉そうに「リクエストなんかすな!とお叱りを受けそうですが)

では人生幸朗師匠について、少しお話しますが、「ボヤキ漫才」で有名だったことは皆さんもご存じでしょう。
流行歌のボヤキが特に絶品で、晩年になってから若者に人気が出たという師匠です。

どんなボヤキかと申しますと・・・
「♪赤いリンゴに唇よせて・・・」と、幸子師匠が歌い始めます。
「♪リンゴは何にも言わないけれど・・・」すると、
「当たり前や!リンゴがモノ言うたら、果物屋のオッサンやかましいてしゃあないわ!」
とか・・・

「♪あなたが噛んだ小指が痛い」と、歌えば、
「誰が噛んだかて、痛いわい!」
とか・・・

「♪君の瞳は一万ボルト」
「人間の目ン玉、電気か!」
こんな感じのネタでした。確か・・・

晩年はもうお亡くなりになられた私の先輩「加納さん」が書かれたネタが多かったそうで、だから「こんなお年寄りは知らんやろ」と、思う歌までボヤいてはったのが若者人気になったのだと思います。

今の時代では「ヒット曲ボヤキ」というネタは、なかなか難しいかも知れませんね。
昭和のヒット曲は、誰もが口ずさむことができたので、成立してたと思います。

人生師匠はかなりの近眼で、そのエピソ-ドも多かった方です。
楽屋に寿司の出前を取り、全部食べ終わった後、大皿に書いてある伊勢エビをホンマもんと思い、ずっと箸でつまもうとしておられたこともあったようです。

また、仏壇にお参りした際、リンと饅頭を間違えて、合掌した後に饅頭を叩いてしまい、「ボテッ!」という鈍い音だけがしたのに驚かれたとか・・・。

もうお亡くなりになって、30年近くにもなるのですね。
ワッハ上方に、確か人生師匠の眼鏡と背広が展示されていると思います。
貴重な実物を拝見した後、資料室で「ボヤキ漫才」のVTRをご覧になってはいかがでしょうか。
寛太寛大さんの話を続けます。

寄席という場所は、お客さんが「笑いたい」と木戸銭を払って見に来てくれているところ。
多少下手な漫才でも、お客さんはあたたかく見守ってくださいます。

反面、「笑う気がない客」の前で漫才するのは大変です。

寛太寛大さんは、松竹新喜劇をやめ、上京し渋谷のストリップ劇場で修業を積まれます。
「道頓堀劇場」というストリップ小屋で、あのコント赤信号が後に修業していた劇場です。

客は女性の裸を見たいと思って来ているのに、合間に登場する漫才コンビ。
「早う引っ込んで、次のストリッパ-出せ!」と、誰もがそう思うでしょう。
そんな客相手に漫才の腕を磨かれたのですから、本物です。

お二人は、やがて名古屋の大須演芸場で、いとしこいし先生で出逢うことになり、「君等なんで大阪で漫才せんのや?もったいないやないか」と勧められ、トップホットシアタ-の舞台を踏まれるようになったと聞きます。

寛大さんの、独特のタメ芸は、厳しいストリップ劇場で完成されたのですね。

取材をした時、寛大さんが面白いエピソ-ドを語ってくださったので、そのお話をしましょう。
ご存じの方も多いかも知れませんが
「ちょっと待ってネ!てっちり事件」です。

当時、寛大さんは長居で居酒屋を経営されていて、フグ調理師免許をも所得された方です。
店には「てっちり始めました」と表示し、てっちりの注文を待ち続けておられましたが、なかなか注文してくれる客はいません。
寛大さんが調理したフグを食べるのが恐ろしかったのでしょうか?どうかは知りませんが、毎日仕入れたフグが残ってしまい、閉店後に家族で食べるしかありません。

「どうしよう・・・かといって、今更てっちりやめましたもシャクやしなぁ」
と、その時、寛大さんはある方法を思いつきます。
隣りの駅前にフグ専門店があり、1980円でテイクアウトでセットを売っているのです。
「そうや!てっちり注文する客が来たら、その1980円のフグセット買うて来て、そのまま出して2980円で売ったろ。確実に損せんと儲かるがな」

それからというもの、客からてっちりの注文を受けると、「ちょっと待ってネ」と、車を飛ばしてフグ専門店へ。
テイクアウトのセットを皿に盛りつけるだけで完了です。

全ては順調に運んでいた時のことでした。
いつものようにフグ専門店に行くと、店主が「寛大さん、あんた本当にフグ好きでんねんな。どれだけフグ食べますのや」
寛大さんは返す言葉もありません。
「そうや、寛大さん、聞いたのやけど、あんた居酒屋やってはるらしいな。今度食べに行かせてもらうわ」と。

そして、フグ専門店の主人が寛大さんの店にやって来ました。
「今日は店定休日やから、ゆっくり食べさせてもらいますわ」と、フグ屋の主人。
メニュ-を見て、「へえ、てっちりやってはりますのんか?ほな、てっちり食べさせてもらいますわ」
すると、寛大さんはこう答えたのです。
「今日はてっちり・・・できないんですわ」
「何で?」
「仕入れができんもんで」

よく出来た話ですが、実話だそうです。
ホントにひょうひょうとすっとぼけた寛大さんのキャラクタ-ならではのエピソ-ドと思って、ここに綴ってしまいました。
寛大さん、すんません。勝手にネタ使わせてもらいまして・・・。

さて京橋花月3月公演「お茶子のブル-ス」の予告をかねて、登場人物や時代背景をボチボチ書いて行きたいのですが、もう少し「昭和の芸人さん伝説」続けましょうか?
「この人」というリクエストがあったらコメントに書いてください。
私なりに知ってる限りのことを述べたいと思いますので・・・。

京橋花月3月公演「お茶子のブル-ス」は、昭和44年の物語ですが、
今日は昭和48年のお話をします。

昭和48年の新年を迎えて、楽屋や吉本本社では「上方漫才大賞」の話題がよく出て来ます。
というのも、2月に審査会があり、そこで「漫才大賞」「奨励賞」「新人賞」が決定するのです。

当時漫才の賞は、ラジオ大阪主催の「上方漫才大賞」と、「NHK新人賞」の二つしかありませんでした。

迎えて第8回のその年、新人賞候補としてみんなが予想していたのは、
「海原千里万里」
「北京一京二」
「若井チックヤング」
それにデビュ-してまだ一年満たない我々B&Bでした。

「オマエ等、何としてでも新人賞取れるよう劇場の漫才ガンバレよ!」
吉本のマネ-ジャ-さんに渇を入れられました。
審査基準は、1月2月あたりに審査員がこっそりと劇場の漫才を見て、その出来によって「誰を新人賞として票
を入れるか」決められるとのことです。
前年は松竹芸能の方が新人賞を受賞されているので、吉本としては「何が何でも今年こそ吉本や!」と、
意気込みも凄かったです。

我々は新ネタを作り、新しい漫才パタ-ンで、劇場でも大爆笑を取れるようになっていました。(また卑怯な反則のような漫才でしたが)
そんな時、「今トップホットに出てる寛太寛大いうコンビ、えらいウケてるそうやで」
そんなことを耳にしたので、早速こっそりと偵察に。

当時、関西の寄席小屋といえば、吉本の「なんば花月」「うめだ花月」「京都花月」
そして、松竹の「道頓堀角座」「神戸松竹座」「新世界花月」と、
吉本にも松竹にも所属しない芸人さん達が出ている「トップホットシアタ-」という劇場がありました。
看板は、「いとしこいし」「はんじけんじ」「お浜小浜」「横山ホットプラザ-ズ」という面々。
そこに寛太寛大さんが若手として出ておられたのです。

そっと客席後方で見ていた私は、ド肝を抜かれる程の衝撃を受けました。
どんな漫才だったかと申しますと・・・
「僕最近、シンガ-ソングライタ-に刺激されて自分で曲を作ってな」
「どんな歌やねんな、聞かせて」
「素人が作った曲やから、今ヒットしてる和田アキ子の『笑って許して』に似てるんや」
「まぁええがな、聞かせて。曲のタイトルは?」
「ちょっと待ってネ・・・言うんやけどな」
「何かええ感じやんか。聞かせて」
「ほな、歌うで・・・」
と、寛大さんがアカペラで、やおら歌い始めます。
「♪ちよっと待ってネ・・・・・・♪笑って許して・・・・・♪ちょっと待ってネ・・・・・♪笑って許して・・・・・♪ちょっと待ってネ・・・・・♪笑って許して・・・・・♪ちょっと待ってネ・・・」
ずっとこのフレ-ズの繰り返し。
最初は突っ込もうとしていた相方の寛太さんですが、アホらしくなって、傍であきれて見ているだけ。
寛大さんは、遠いところを見つめたまま、同じフレ-ズをずっと続けます。
それがなんと15分間も続いてしまうのです。
最初はクスクス笑いから始まったのですが、笑いはどんどん倍増し、最後には大爆笑。
全く意味不明なのですが、お二人の不条理な空気が劇場を包み込み、私もついつい笑い転げてしまいました。

トップホットの小屋を後にした私は思いました。「あんな人と勝負できん。我々は完全に負けや」と。
私はそれから間もなく白旗を上げるように、新人賞審査会目前に失踪して東京に行ってしまったのです。

結局この年の新人賞は、寛太寛大さんが受賞されました。
ずっとお二人の漫才が大好きでした・・・しかし、寛太さんが他界され、もう拝見することはできません。残念です。

寛太寛大さんが、何故そんな凄い漫才の腕を持っておられるのか、私はつい最近その謎を知りました。
ABCの深夜番組「なんば壱番館」の後番組「にこいち」という番組で、私は寛太寛大さんに取材をして始めてわかったのです。
それは・・・また次にお話しましょう。


 

 

名古屋の大須演芸場での10日間は、初舞台の私達にとって誠に充実した10日間でした。

出番の合間、楽屋でバクチしている芸人さんがいる。
真剣にネタ合わせをしている芸人さんがいる。
そのどれを取っても、「ああ、プロの芸人さんならではやなぁ」と感心してしまう光景でした。

そんな時、同じ楽屋のル-キ-師匠から「今日は仕事があるのや。オマエ等ついて来るか?」と、
お誘いの言葉。
「今日仕事があるて?毎日舞台に立っているのが仕事と違うの?」と、思った私でしたが・・・

つまり、こういうことです。
寄席のギャラは当時安くて仕事と呼べない程の金額だったようです。
ル-キ-師匠の「仕事があるのや」は、夜のキャバレ-の舞台のことでした。

寄席のギャラと、当時のキャバレ-のギャラを比較しますと、
私自身B&Bで花月に立っていた頃は、一日1500円。
その後、東京に行ってキャバレ-の舞台に立つと、一回3万円ももらえた位の違いです。

あの月亭可朝師匠も、キャバレ-まわりをした方がはるかに稼げるので(それだけの理由ではなかったかも知れないのですが)吉本をやめられた程です。

当時はマンモスキャバレ-が流行りで、どの店もフルオ-ケストラをステ-ジに備えていて、舞台もセリから上がって来るような設備のキャバレ-も多く、客数も千人を超えるマンモトキャバレ-が全国各地にあった時代です。

ホステスを含むと、二千人は超えるという大舞台です。
でも、そこはホステス目当てに酔っている客。
まともに話を聞いてくれたりしません。

以前に先輩芸人さん(と言っても大スタ-さんですが)に連れられて、その方の荷物持ちでキャバレ-の仕事に同行した経験がありました。
その方は、ろくに喋りもせず、バンドを使って歌で約半分の時間を茶を濁しておられました。
帰り道、私が素朴に「師匠、どうして漫談をされないんですか?」と聞くと、
「酔っぱらいが漫談なんか聞いてくれるかいな。キャバレ-なんかはな、歌で時間を稼いで銭もらうところや」

私はキャバレ-の舞台をギャラこそいいにしろ、「芸人泣かせの場所」としてバカにしていました。

ところが、ル-キ-師匠について行ったことで、これが見事にくつがえされたのです。

我々は、ル-キ-師匠の漫才をキャバレ-の舞台の袖で拝見していました。
ル-キ-師匠コンビは、舞台に立つと客の拍手もまばら。
仕方ないです。しばらくテレヒにほされて人気薄の時代でしたから。
そして、漫才が始まると、客はザワザワとして、漫才聞く様子もなし。

しかし、ル-キ-師匠達は、平然と昼間の舞台と同じシャベクリ漫才を続けられたのです。
前の客だけがそのシャベクリ漫才が面白いので笑い転げていました。

すると、その後ろのボックスの客は「前の客は何笑うてるのやろ?」と、舞台に注目するようになり、
その現象がどんどん輪になって広がり、ル-キ-師匠の舞台が終わる30分後には、二階席の客が立って見ていて、場内爆笑の渦と化していました。
ル-キ-師匠はこの時、卑怯なエッチネタやら、歌で逃げる等いっさいされておりません。
昼間の寄席と全く同じ、シャベクリ一本で勝負された結果だったのです。

私の背筋に旋律が走りました!
「本格的漫才って、まさにこのことだ」と。

ル-キ-師匠は厳しい方で、我々に優しい顔を決して見せないお方でした。
でも、一度だけ私は見てしまいました。
それは、出番前、楽屋でル-キ-師匠が支度をされていた時のこと。
私は、師匠の背後で、師匠の背広を手に持ち、鏡前で師匠が頭にスプレ-の仕上げをされていたのを待っていました。
と、その時です・・・師匠のスプレ-が「プス-」という音と共に切れてなくなってしまったのです。
普通なら、「スプレ-切れたな」で終わりですが、
師匠はノリの芸で、切れたスプレ-でいつまでもあるがごとく長い間ノリの芸をされた後「何やこれ?」と。
私は背後で思わず「プッ!」と、笑ってしまいました。
すると、師匠は鏡越しに、ニコリと。

「オマエ、今のワシのノリの芸盗めよ」と、教えられてるようでした。
嬉しかったです。
天下のル-キ-新一が、私一人の為にしてくださった芸でしたから・・・。

それから数年後、ル-キ-師匠は他界されました。
関西お笑い界では、本当に惜しい方だったと思います。

「どんなひどい状況下にあっても、芸人たるもの、客を笑わせる」
ル-キ-新一さんは、凄いお方でした。



京橋花月3月公演「お茶子のブル-ス」やっと脚本脱稿です。

今回のお芝居は、昭和44年の寄席楽屋の物語。
登場人物や、細かいエピソ-ドはかなり当時あったことをモデルにして再現しております。

このブログでも、お芝居をご覧いただく為の予告編として、登場人物の紹介や、見どころをたっぷりと紹介して行こうと思っております。

さて、昭和の伝説芸人さんのお話ですが、続いては「ル-キ-新一」さんについて語ることにしましょう。

「ル-キ-新一」と聞いただけでピンと来る人は、かなりのお笑いマニアか、それ相応の年齢に達している方でしょうね。

「ル-キ-新一」さんは、昭和40年から、3~4年の短い期間でしたが、爆発的に人気のコメディアンでした。
吉本新喜劇の第一期黄金時代の大看板スタ-だった方です。
乳首をつまんで、「イヤ~ン イヤ~ン」のギャグと言えば思い出される方も多いでしょう。

全盛期どれだけ凄かったかと申しますと、ル-キ-さん主演の新喜劇のタイトルは全て「新一の○○○」と、
主演のル-キ-さんの冠がついていた程です。
「ああ、ル-キ-の出てる芝居やったら、見て行こうか」そんなお客さんもさぞ多かったのでしょうね。

ル-キ-さんは、元々漫才をされていたのですが、新喜劇からスカウトされ、あっという間に座長になられた方。あのレッツゴ-三匹のリ-ダ-、正児師匠のお兄さんです。

でも、人気絶頂期に吉本とギャラのことでもめて、吉本をやめ独立されます。
その後はTVからもほされ、舞台のみの芸人暮らしをされていました。

私がル-キ-師匠と出会ったのは、昭和47年2月。場所は名古屋にあった寄席小屋「大須演芸場」でした。
我々B&Btがコンビ結成して初舞台の席でした。
その頃の大須演芸場はすでに下降気味の寄席小屋。
しかし、出ているメンバ-が凄かったです。
ナンセンストリオ、笹一平八平、ギャグメッセンジャ-ズ、晴乃ピ-チクチック、ダスタ-ポット、雷門助六・・・と、昭和40年前半に東京がお笑いブ-ムだった頃にゴ-ルデンタイムのTVに常時出演されていた超豪華な顔ぶれでした。(この名前を見て全てわかる人はかなりのお笑いマニアです)

そんな豪華な東京勢に比べ、関西からは「ル-キ-新一、北一朗」コンビと、初舞台の我々のみ。
(ル-キ-師匠はその頃北一郎という方を組まれていました。後の「チグハグコンビ」といえばわかる方も多いでしょう。NHKの受賞をもした一時騒がれたコンビです)

楽屋は舞台の袖すぐの四畳半程度の部屋で、ここがル-キ-師匠達と我々の共同楽屋です。
10日間の出番、我々はここで寝泊まりをすることになります。
ル-キ-師匠達は勿論旅館が用意されています。

楽屋が生活全てであり、小屋がハネると楽屋みんなで夕飯です。
一番後輩の我々は、先輩のご飯をつぐ係です。
TVで見た「親ガメの背中に子ガメを乗せて・・・」と言ってた師匠の茶碗に白飯をつぐことに、私は喜び一杯でした。

そんな初日・・・我々の出番が終わって、そろそろル-キ-師匠達が楽屋入りする時間。
我々は、入り口に直立したままル-キ-師匠が来るのを今か今かと待っていました。
10日間、勝手に弟子同然のことをさせていただこうと相方と話し合っていたのです。

子供の頃TVで見ていた「イヤ~ン イヤ~ン」の人に生で会えるというドキドキ気分でした。

ル-キ-師匠が楽屋入りをされました。
早速自己紹介をした我々。
「ああ、そうですか」と、特に反応のないル-キ-師匠。
凄いオ-ラがありました。
TVから遠ざかり、さぞ落ちぶれて・・・と、勝手な予想をしていたのですが、恐ろしい風格を備えていらっしゃいました。

私達は早速、弟子同然に師匠の着替えを手伝います。
嬉しかったです。
憧れのル-キ-師匠の着替えを手伝っている自分がここにいると・・・。

そして、名古屋の小屋の10日間出番の中で、私は驚くべきル-キ-師匠の芸人魂を見てしまったのです。



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