萩原芳樹のブログ
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名古屋の大須演芸場での10日間は、初舞台の私達にとって誠に充実した10日間でした。
出番の合間、楽屋でバクチしている芸人さんがいる。 真剣にネタ合わせをしている芸人さんがいる。 そのどれを取っても、「ああ、プロの芸人さんならではやなぁ」と感心してしまう光景でした。 そんな時、同じ楽屋のル-キ-師匠から「今日は仕事があるのや。オマエ等ついて来るか?」と、 お誘いの言葉。 「今日仕事があるて?毎日舞台に立っているのが仕事と違うの?」と、思った私でしたが・・・ つまり、こういうことです。 寄席のギャラは当時安くて仕事と呼べない程の金額だったようです。 ル-キ-師匠の「仕事があるのや」は、夜のキャバレ-の舞台のことでした。 寄席のギャラと、当時のキャバレ-のギャラを比較しますと、 私自身B&Bで花月に立っていた頃は、一日1500円。 その後、東京に行ってキャバレ-の舞台に立つと、一回3万円ももらえた位の違いです。 あの月亭可朝師匠も、キャバレ-まわりをした方がはるかに稼げるので(それだけの理由ではなかったかも知れないのですが)吉本をやめられた程です。 当時はマンモスキャバレ-が流行りで、どの店もフルオ-ケストラをステ-ジに備えていて、舞台もセリから上がって来るような設備のキャバレ-も多く、客数も千人を超えるマンモトキャバレ-が全国各地にあった時代です。 ホステスを含むと、二千人は超えるという大舞台です。 でも、そこはホステス目当てに酔っている客。 まともに話を聞いてくれたりしません。 以前に先輩芸人さん(と言っても大スタ-さんですが)に連れられて、その方の荷物持ちでキャバレ-の仕事に同行した経験がありました。 その方は、ろくに喋りもせず、バンドを使って歌で約半分の時間を茶を濁しておられました。 帰り道、私が素朴に「師匠、どうして漫談をされないんですか?」と聞くと、 「酔っぱらいが漫談なんか聞いてくれるかいな。キャバレ-なんかはな、歌で時間を稼いで銭もらうところや」 私はキャバレ-の舞台をギャラこそいいにしろ、「芸人泣かせの場所」としてバカにしていました。 ところが、ル-キ-師匠について行ったことで、これが見事にくつがえされたのです。 我々は、ル-キ-師匠の漫才をキャバレ-の舞台の袖で拝見していました。 ル-キ-師匠コンビは、舞台に立つと客の拍手もまばら。 仕方ないです。しばらくテレヒにほされて人気薄の時代でしたから。 そして、漫才が始まると、客はザワザワとして、漫才聞く様子もなし。 しかし、ル-キ-師匠達は、平然と昼間の舞台と同じシャベクリ漫才を続けられたのです。 前の客だけがそのシャベクリ漫才が面白いので笑い転げていました。 すると、その後ろのボックスの客は「前の客は何笑うてるのやろ?」と、舞台に注目するようになり、 その現象がどんどん輪になって広がり、ル-キ-師匠の舞台が終わる30分後には、二階席の客が立って見ていて、場内爆笑の渦と化していました。 ル-キ-師匠はこの時、卑怯なエッチネタやら、歌で逃げる等いっさいされておりません。 昼間の寄席と全く同じ、シャベクリ一本で勝負された結果だったのです。 私の背筋に旋律が走りました! 「本格的漫才って、まさにこのことだ」と。 ル-キ-師匠は厳しい方で、我々に優しい顔を決して見せないお方でした。 でも、一度だけ私は見てしまいました。 それは、出番前、楽屋でル-キ-師匠が支度をされていた時のこと。 私は、師匠の背後で、師匠の背広を手に持ち、鏡前で師匠が頭にスプレ-の仕上げをされていたのを待っていました。 と、その時です・・・師匠のスプレ-が「プス-」という音と共に切れてなくなってしまったのです。 普通なら、「スプレ-切れたな」で終わりですが、 師匠はノリの芸で、切れたスプレ-でいつまでもあるがごとく長い間ノリの芸をされた後「何やこれ?」と。 私は背後で思わず「プッ!」と、笑ってしまいました。 すると、師匠は鏡越しに、ニコリと。 「オマエ、今のワシのノリの芸盗めよ」と、教えられてるようでした。 嬉しかったです。 天下のル-キ-新一が、私一人の為にしてくださった芸でしたから・・・。 それから数年後、ル-キ-師匠は他界されました。 関西お笑い界では、本当に惜しい方だったと思います。 「どんなひどい状況下にあっても、芸人たるもの、客を笑わせる」 ル-キ-新一さんは、凄いお方でした。 PR |
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