萩原芳樹のブログ
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京橋花月3月公演「お茶子のブル-ス」やっと脚本脱稿です。
今回のお芝居は、昭和44年の寄席楽屋の物語。 登場人物や、細かいエピソ-ドはかなり当時あったことをモデルにして再現しております。 このブログでも、お芝居をご覧いただく為の予告編として、登場人物の紹介や、見どころをたっぷりと紹介して行こうと思っております。 さて、昭和の伝説芸人さんのお話ですが、続いては「ル-キ-新一」さんについて語ることにしましょう。 「ル-キ-新一」と聞いただけでピンと来る人は、かなりのお笑いマニアか、それ相応の年齢に達している方でしょうね。 「ル-キ-新一」さんは、昭和40年から、3~4年の短い期間でしたが、爆発的に人気のコメディアンでした。 吉本新喜劇の第一期黄金時代の大看板スタ-だった方です。 乳首をつまんで、「イヤ~ン イヤ~ン」のギャグと言えば思い出される方も多いでしょう。 全盛期どれだけ凄かったかと申しますと、ル-キ-さん主演の新喜劇のタイトルは全て「新一の○○○」と、 主演のル-キ-さんの冠がついていた程です。 「ああ、ル-キ-の出てる芝居やったら、見て行こうか」そんなお客さんもさぞ多かったのでしょうね。 ル-キ-さんは、元々漫才をされていたのですが、新喜劇からスカウトされ、あっという間に座長になられた方。あのレッツゴ-三匹のリ-ダ-、正児師匠のお兄さんです。 でも、人気絶頂期に吉本とギャラのことでもめて、吉本をやめ独立されます。 その後はTVからもほされ、舞台のみの芸人暮らしをされていました。 私がル-キ-師匠と出会ったのは、昭和47年2月。場所は名古屋にあった寄席小屋「大須演芸場」でした。 我々B&Btがコンビ結成して初舞台の席でした。 その頃の大須演芸場はすでに下降気味の寄席小屋。 しかし、出ているメンバ-が凄かったです。 ナンセンストリオ、笹一平八平、ギャグメッセンジャ-ズ、晴乃ピ-チクチック、ダスタ-ポット、雷門助六・・・と、昭和40年前半に東京がお笑いブ-ムだった頃にゴ-ルデンタイムのTVに常時出演されていた超豪華な顔ぶれでした。(この名前を見て全てわかる人はかなりのお笑いマニアです) そんな豪華な東京勢に比べ、関西からは「ル-キ-新一、北一朗」コンビと、初舞台の我々のみ。 (ル-キ-師匠はその頃北一郎という方を組まれていました。後の「チグハグコンビ」といえばわかる方も多いでしょう。NHKの受賞をもした一時騒がれたコンビです) 楽屋は舞台の袖すぐの四畳半程度の部屋で、ここがル-キ-師匠達と我々の共同楽屋です。 10日間の出番、我々はここで寝泊まりをすることになります。 ル-キ-師匠達は勿論旅館が用意されています。 楽屋が生活全てであり、小屋がハネると楽屋みんなで夕飯です。 一番後輩の我々は、先輩のご飯をつぐ係です。 TVで見た「親ガメの背中に子ガメを乗せて・・・」と言ってた師匠の茶碗に白飯をつぐことに、私は喜び一杯でした。 そんな初日・・・我々の出番が終わって、そろそろル-キ-師匠達が楽屋入りする時間。 我々は、入り口に直立したままル-キ-師匠が来るのを今か今かと待っていました。 10日間、勝手に弟子同然のことをさせていただこうと相方と話し合っていたのです。 子供の頃TVで見ていた「イヤ~ン イヤ~ン」の人に生で会えるというドキドキ気分でした。 ル-キ-師匠が楽屋入りをされました。 早速自己紹介をした我々。 「ああ、そうですか」と、特に反応のないル-キ-師匠。 凄いオ-ラがありました。 TVから遠ざかり、さぞ落ちぶれて・・・と、勝手な予想をしていたのですが、恐ろしい風格を備えていらっしゃいました。 私達は早速、弟子同然に師匠の着替えを手伝います。 嬉しかったです。 憧れのル-キ-師匠の着替えを手伝っている自分がここにいると・・・。 そして、名古屋の小屋の10日間出番の中で、私は驚くべきル-キ-師匠の芸人魂を見てしまったのです。 PR |
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