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萩原芳樹のブログ
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テレビが日本国中に普及したのは、今の金城天皇が皇太子様でご成婚の時であった。

ヨンちゃんの家にテレビが来たのも、この頃であった。
町内でも、かなり早い方だったので、夜になると近所の人達がヨンちゃんの家に集まって来る。

「おじゃまします。テレビ見せてください」
と、ヨンちゃんの家の6畳の座敷は超満員となる。

そこで、ヨンちゃんの父親は、威厳だっふりに床の間に置いてあったテレビの幕(が当時あった)を開けて、スイッチを入れる訳である。

映画小僧であったヨンちゃんは、今度はテレビに夢中になった。
「月光仮面」「赤銅鈴之助」「七色仮面」「隠密剣士」「風小僧」「まぼろし探偵団」「ジャガ-の眼」「ハリマオ」「矢車剣之助」等々・・・次々とTVから飛び出すヒ-ロ-ものに夢中になった。

そういえば、後日TBSのバラエティドラマで「赤銅鈴之助」をやることになり、ヨンちゃんは脚本を担当したことがあった。
子供の頃観ていた憧れの作品であり、スタッフロ-ルに「原作 たけうちつなよし」「脚本 萩原芳樹」と出たことを大変喜んだようだ。

まだ家庭にTVが普及していないその時代、街頭テレビに人は集まった。
電気屋にあるTVをみんなで見ているだけのことではあるが。

ある日、ヨンちゃんは街頭テレビでえらい災難にあったことがあった。
小学校一年の時のことである。

学校帰りに近くの電気屋のテレビをウィンド-越しに見ていた。
ちょうど相撲中継をやっていたので。
(ヨンちゃんは相撲が好きで、将来なりたい職業を聞かれたら相撲取りと言ってた程)

ランドセルを背負ったまま、たまたま見ていたテレビなのだが、相撲の取り組みが進むにつれて、どんどん人が押し寄せて来る。
ヨンちゃんは家でもテレビを見られるので、帰ろうとした。
が、もはや身動きも取れない程、背後に大人が詰めかけていた。

ヨンちゃんはTVの相撲を見るどころではない。
後ろから大人に押され、ウィンド-ガラスに、ピタ-ッと、顔を押しつけられた状態で、もはや息をすることも困難な状態になってしまった。
「このまま相撲を見ながら死ぬんか」と、思ったくらいである。

やっと相撲中継が終了し、ヨンちゃんは解放された。
家に帰って、婆ちゃんにそのことを話すると、「ケガしてないか?」と、婆ちゃんは凄い心配してくれた。

その時、ヨンちゃんは思った。
「寄り道するのはやめよう。婆ちゃんを悲しませるだけやから」と。
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さて、婆ちゃんに東映の時代劇映画の封切り毎に連れて行ってもらっていたヨンちゃん。
まだ4歳なのに、時代劇の展開パタ-ンを掴んでしまったようだ。

当時子供の間で流行っていた遊びにベッタンがあった。
地方によってメンコと呼んでみたりするらしいが、姫路では「パッチン」と呼ばれていた遊びだ。

子供達は小遣いをもらうと駄菓子屋に駆け込み、パッチンを買う。
そして、勝負をするのだ。
単純に相手のをひっくり返したら勝ち。
相手のパッチンをもらえる。

ヨンちゃんは、パッチンこそ買うが、みんなと取り合い遊びをしたがらなかった。
パッチンの表の絵柄は、時代劇のスタ-になっているが多かった。
ヨンちゃんは、そんな時代劇スタ-のパッチンをズラリ並べては、一人勝手に物語りを作って、「一人パッチン」で時代劇スタ-達を戦わせたりしていた。
セリフも入っていた。
「くそ、生意気な。覚えてやがれ」等と。
友達と取り合うよりも、遙かに面白かったのであろう。

とにかく友達と遊ぶことをしなかったヨンちゃん。
共稼ぎの両親は心配して、表で遊べと叱るが、ヨンちゃんにとっては一人遊びの方が、ずっと楽しいのであった。

ある日、婆ちゃんが心配して、ペットを飼うことを両親に進言してくれた。
「何を飼いたい?」と聞かれたヨンちゃんは「ウサギ」と答えた。

ヨンちゃんはウサギを飼うことになった。
近くの野原で毎日ウサギの餌のクロ-バ-を摘んではウサギに与えた。

「カメも飼いたい」
またおねだりである。
ヨンちゃんは、ウサギだけでは物足りなかったようだ。
父親が、どこで捕まえて来たのか、泥カメを持ち帰って来た。

ウサギとカメ・・・どちらもヨンちゃんにとっては大切な宝物であった。
愛情を二つに分けて注ぎ込むことに悩んだ。
そして、カメの面倒を見ている時のことであった。
ウサギが逃げ出した。
ヨンちゃんは追いかけた・
しかし、ウサギは近所の路地に逃げ込んで姿は見当たらない。

ションボリして家に戻ると、なんと今度はカメもいなくなっているではないか。
ヨンちゃんは愕然となった。

ウサギとカメの競争かと思いきや、結局ウサギにもカメにも、ヨンちゃんは負けてしまったのである。
「人の気持ち」
簡単なようで社会生活をしている人間にとっては一番大切で、難しいことなのだと思う。

今日、「キャバレ-哀歌」に出演していただいた歌手の「かぐや」さんからご丁寧な手紙をいただいた。

手紙の内容は、今回の芝居のお礼と感想であったが、その中に「私の父も九州の炭鉱出身なんです」とあった。

ドキリとした。
芝居の劇中では、九州の貧しい炭鉱出身・・・と、簡単に片付けているのだが、本物の人がそれを観た時、果たして何を感じられたのだろうか・・・。

コメディとはいえども、もっともっと人物の探求を真剣にしなければならない。
反省ものである。

そんな今回の「キャバレ-哀歌」だったが、今日芝居に来てもらった関係者に挨拶まわりをすると、凄い好評だったので、自分ながらに驚いた。

「翌日も、劇中に出て来た歌が消えなかったんですよ。昭和歌謡って、いいですよね」
私は今後の大きな課題をここで見つけられたと思った。

いっそ、昭和歌謡と心中してみようかと・・・。

大平サブロ-さんから早速オファ-があり、この一座とサブロ-さんによる昭和歌謡のお芝居を今年の秋頃にやろうかと、話はトントン拍子に進んでおります。

でも、作者の立場としては、「昭和を描く以上、もっとより深く」と、肝に命じられたことは間違いない。


昭和27年(1952年)8月2日、ヨンちゃんは、この世に「オギャア」と、出て来た。

生まれた場所は、姫路市神屋町といって、姫路城から1キロほど東に位置する所。
ヨンちゃんは、姫路城をずっと東の方向から眺めて育つことになる訳だが、姫路城は西南の方向から眺めると小天守も見えて美しく、ドラマの撮影などには、ほとんど西南から見た姫路城が使われている。

ヨンちゃんの眺めていた東から見る姫路城は最も醜いといわれている方角であるが、それでもヨンちゃんは姫路城を眺めることが大好きであった。

ヨンちゃんの生まれ育った神屋町の隣りに天神町という町があって、そこの「天神さん」の神主の息子さんが桂米朝師匠であることを子供の頃が聞いていた。
ヨンちゃんの七五三の写真も、その天神さんで撮られている。

後日、姫路城が世界遺産になった記念番組をNHKで放送することになった時、後に放送作家になったヨンちゃんが、ゲストの米朝師匠と、幼い頃から見ていた姫路城を眺めて一緒に歩いたことがあった。

当然育った家が近かったので、お互い子供の頃から見ていた姫路城は同じ醜い角度であり、ヨンちゃんは凄い嬉しかったようだ。

ヨンちゃんが姫路城を好きなのには理由があった。
母方のばあちゃんの先祖が、どうやら姫路城の家老職であったと幼い頃から聞かされたのが原因である。

そんなことを聞かされた子供は、プライドばかりが高くなる。
ヨンちゃんも、その口だったようだ。

ヨンちゃんの父親は国鉄職員(今のJR)で、母親は小学校の教員。
兄弟は三歳上の姉が一人。

父親の名前は萩原一一(かずいち)
単に7月11日生まれだから、そう名付けられたそうだが、この名前で後日ヨンちゃんは不幸な子と勘違いされてしまう。

というのも、学校の名簿の保護者欄に「一一」と書かれているのを見た友達が「ああ、この子は保護者すらいないんだ」と、同情されてしまうなんてこともあったようだ。

ヨンちゃんの名前は萩原芳樹・・・よくよく見れば全部草に絡む文字である。
姓名判断ではないが、こんな草食系の名前では、人との争いを避けるようになる人生も当然のこと。
名前という奴は、よくできている。

両親が共働きなこともあって、ヨンちゃんは隣家に住んでいた祖父と祖母によって育てられたといって良い。

ヨンちゃんの婆ちゃんは「みつゑ」という名前。
さすが元家老の家の出だけに上品な婆ちゃんであった。
でも、娯楽ごとが大好きな婆ちゃんで、まだ3歳くらいのヨンちゃんを東映の時代劇映画の封切りの度に連れて行った。

ヨンちゃんは、東映時代劇の影響を幼くして受け、現実を無視して常に空想の世界を楽しむ子供になって行ったのである。

このブログを立ち上げたのは、そもそも芝居を観に来てくださる方の為に、時代背景やら登場人物に関して深くお伝えしようとしたことからでした。

芝居がいざ終わり、何をブログに書いて良いのやら迷っていました。
私事の日常なんて書いても、本当にくだらない日々。
連日アクセスしていただいている皆さんに、そんな報告をしても仕方ありません。
(まぁ時々思いついたように身辺雑記はしていましたが)

「キャバレ-哀歌」は、昭和42のお話でした。
昭和42年というと、私は当時中学3年生。
そもそもこのブログのスタ-トは、私が中学3年の時、突然あの「横山やすし」さんの楽屋を訪ねたことから書き始めています。

そこから芸人になり、吉本を辞めて東京に行き、やがて芸人を廃業して実家に戻り商売を始め、そして作家となるまでの日々・・・。
こと細かくブログに綴ってまいりました。
昭和の中で悪戦苦闘した青春日記のようなものでありましたが・・・。

そこで、次回からはこのブログで私が中学3年を迎えるまでの思い出を綴りたいと思っています。
昭和30年代に育った「ヨンちゃん」(私の呼び名です)という子供のお話。
「キャバレ-哀歌」劇中にも、私自身の昭和に育ったエピソ-ドを随分と盛り込みましたので、お芝居をご覧になられた方は、「成る程」と思ってくださる部分もあると思います。

昭和42年・・・中学3年生だった「ヨンちゃん」が、何故お笑いに目覚めたのか・・・。
そこには、イジメやいろんな要素があった訳です。

「ヨンちゃん物語」
次回からスタ-トさせます。
でも、何だか気恥ずかしいです、正直。
自分の裸を見せてしまうようなことですからね。
「キャバレ-哀歌」は、昭和の時代、本当にあったことを参考に脚本を作らせていただきました。

以前のブログでも書いたと思うのですが、観に来ていただいた方に一応報告しておきます。

まず妙子が貧しい炭鉱の暮らしで、最高のご馳走が「ちくわ入りカレ-」という逸話は、歌手の牧村美枝子さんからお聞きした実話。
牧村さんは北海道の炭鉱育ちでしたから。

そして、「赤い靴」の歌詞「ひい爺さんに連れられて行っちゃった」と、隅田川の「ノラリクラリの村人が」に関してですが・・。
これは今は亡き「松本竜介」さんが本当に間違っていたのを引用させていただきました。
合掌、

それからもう一つ、キャバレ-まわりの歌手「かぐや」さんのセリフで、「家なんかありません。妹夫婦のマンションの片隅に荷物だけ置いてもらってます」
これは、私が20歳の頃、帯広のキャバレ-で一緒になったキャバレ-まわりのストリッパ-の姉さんの言葉でした。

構想~稽古を経て、半年間「キャバレ-哀歌」に力を注ぎ込んで来ました。
公演が終わった今、心にポッカリと穴が開いてるのか、昭和の風だけが今も吹き続けています。


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