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萩原芳樹のブログ
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さて、忍者と一口に申しましても、当時の伊賀忍者には組織があり、忍者の中でも身分があったようです。

まず、伊賀忍者として有名な「服部半蔵」は、上忍。
当時、伊賀には「服部家」「藤林家」「百地家」の3上忍がいたようです。
(「女忍のブル-ス」は、この中の「百地家」の話ですが)

上忍は、各地の大名から忍者の発注を受けて、中忍を通じて下忍を送り込むことになります。
今で言えば、上忍は「派遣会社の社長」であり、中忍は「中間管理職」、下忍は「派遣社員」のようなものです。

ですから上忍としては、極力多くの下忍を抱えていた方が、儲かったということになります。

物語に登場する「猿飛佐助」等、忍者ヒ-ロ-はこの下忍が主流となることが多いです。
今回の「女忍のブル-ス」も、主に下忍仲間の物語。

そこで、下忍が常に忍者活動をしていたかといえば、決してそうでなかったようです。
では、発注のない下忍達は何をしていたのか・・・。
実は「小作人」もかねていたのですね。
それも、上忍の田畑を耕しては、わずかの銭をいただいていた身分。

忍者修業中の少年達は、早朝から農業をして、午後に忍者修業を積むという日々だったようです。

よく考えてもらえばわかるのですが、「忍者の扮装」は、当時のお百姓さんのスタイルなのです。
それに、当時は手裏剣よりも、鎌を投げるという技の方が凄かったとか。

当たり前ですよね。あんな小さな手裏剣よりも、農作業で使う鎌を投げた方が殺傷能力に優れていたことがわかります。

戦国時代、忍者のみならず、戦いになると百姓の人達も随分と、槍を持たされ戦場に行かされていたようです。
そこで、薩摩の「島津義弘」という有名な武将は、それを逆手に取った戦術を使ったとか。
また次にお話します。
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