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萩原芳樹のブログ
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では、薩摩の「島津義弘」が行った戦術について述べます。

戦国武将は、戦いになると地元の「お百姓さん」をも借り出して槍を持たせたりしたものです。
戦いには「野戦」と「城攻め」があります。
「城攻め」では、攻められる方は城に籠城して戦う訳ですが、「島津義弘」はこんな「城攻め」をしたという記録が残っています。

それはちょうど米の取り入れ時期の秋のこと。
「城攻め」しようと城下にまで迫った「島津義弘」は、何と「田を焼け!」と、命じたのです。

城に籠城していた「お百姓さん」達は、自分の田が焼かれているのを見て、慌てて火を消しに田に向かって行ったとか。
田植えから大切に育てた稲が、やっと刈り入れ時期なので、みんな必死。

そして、籠城する兵が減ったのを見て、「城攻め」をしたと言われています。

戦国時代の戦いは、主に春から秋にかけての季節が多かったようです。
さすがに冬の進軍は野宿などを考えると困難だったのでしょうね。

逆に、忍者のスパイ活動は冬の時期が多かったとか。
次の春の合戦に備えて情報収集をしていたのでしょう。

ですから、忍者も春から秋にかけては「小作人」となって農業に従事することも多かったとか。
しかし、敵が侵入すると、農作業していた鎌を敵の後ろから投げて殺すという「鎌手裏剣」も使っていたようです。

現在、この「鎌手裏剣」の使い手は日本でも数えられる程しかいらっしゃらないのですが、今回の「女忍のブル-ス」の殺陣指導をしてくださる「小沢真太郎」さんは、「鎌手裏剣」の達人でもあります。
(でも、危険ですから芝居では使いませんが・・・)

「女忍のブル-ス」現在執筆中ですが、一つ訂正させていただきます。
チラシの裏側に「伊勢松ヶ島城主の北畠信雄」と載せておりましたが、正しくは「伊勢田丸城主」の誤りでした。
北畠信雄が松ヶ島城に居城を移すのは、この物語の翌年「天正8年」のことでした。
歴史にお詳しい方、失礼を致しました。
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