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萩原芳樹のブログ
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ラジオの「ニッポン放送」から、レギュラ-番組のお話をいただいた訳ですが、それは「横山プリン」さんのおかげでもありました。

「横山プリン」と聞いて、「ああ」と、思い出される方は、かなりの年配だと思います。
「横山プリン」さんは、昭和40年代後半、大阪のラジオを中心に爆発的な人気だった方。

そもそも、「横山ノック」さんのお弟子さんで、立命館大学を卒業して弟子入り。
当時としては、大卒のお弟子さんは珍しかったようです。

そこで、兄弟弟子の「やすし」師匠と「横山やすしたかし」として、コンビを結成されます。
が、「やすし」師匠は学歴コンプレックスの固まりで、大卒のプリンさんとは、上手くやって行けなかったようです。

そして「二代目横山たかし」は、レッツゴ-三匹のリ-ダ-、正児さんとなります。
しかし、このコンビもすぐに解散。

「やすし」師匠は、またまた「プリン」さんと再コンビを結成することになる訳です・・・が、またこれもすぐに解散に。

そんなこんなで、コンビに恵まれなかった「プリン」さんでしたが、OBCラジオから火がついて、関西の若者の人気者になります。

「プリン」さんは、天才肌の芸人さんで、放送作家としても活動されており、プリンさん企画の全国ネット番組も当時ありました。

そんな「プリン」さん。誰よりも早く東京進出をされたのです。
「ニッポン放送」が受けて、「プリン」さん司会の公開ラジオが、私が上京した頃、人気番組になっていました。

大阪で少し付き合いのあった私は、プリンさんを訪ねて行きました。
プリンさんは、「おおっ!オマエ大阪辞めたらしいな。来いや!ディレクタ-紹介したるから」と、すぐに「ニッポン放送」のディレクタ-を紹介してくださったのです。

その内容がまたプリンらしいひと言。
「こいつ、大阪で売れてたのに、東京に出て来よったんですわ。変わった奴ですわ。けど、売れてたという程でもなかったな。チョイ売れくらいやったな」と。

こんな「プリン」さんのおかげで、私は「ニッポン放送」とのパイプが出来、レギュラ-番組のお話にまで発展したのです。

「プリン」さんには、今でも感謝しております。
「横山ノック」先生が亡くなる前、最後に行われた「ノック一門会」でのことでした。

漫画トリオ再結成いうことで、懐かしの漫才を披露されたのですが、「ノック」「フック」と「パンチ」の代わりに「プリン」さんが代役をされていて、往年のネタにプリンさんならではのアドリブで大爆笑でした。

現役を引退されているのにもかかわらず、凄いアドリブ。
私は、感動すらしました。

「プリン」さんは、常に「時代を先読み」しているような方でした。
関西タレントで東京進出第一号です。
今では、普通に東京進出をしている大阪の芸人も、全て「プリン」さんの後追いをしているだけのことなのです。

そんな「プリン」さんの紹介から始まって「ニッポン放送」の、それも「オ-ルレナイトニッポン」のパ-ソナリティにつながるという仕事。

ワクワクしていた私の元に、姫路の実家から電話があり、「話があるから帰って来い」と。

私の両親は、ずっと私が芸人をしていることに大反対でした。
そして、厳粛で厳しい父が私に始めて違う顔を見せたのでした。
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